曄歌youka

漢詩詞関連

交友関係

 交友関係を挙げれば、長い人生ですから際限がありませんが、この 741.jp と、Kanshi.org Siteに掲載されている記事は、小生が関わっていますから、殆ど書き尽くされていますが、要約しますと・・・・

 住まいが近かった事もあり、日本弁護士連合会会長の“江尻平八郎"先生が居りました。仕事を頼んだことは有りませんが、何となく、長年に亘って私的な交際をしていました。
 親類には県議や市議が数人居たのですが、親類として以上の付き合いは致しませんでした。

 日本の漢詩界では、黒潮吟社主宰の“高橋藍川"先生と、山陽吟社主宰の“太刀掛呂山”先生と、蒼浪吟社主宰の“米沢葵堂”先生と、四国の東雲吟社主宰の“吉田素抱”先生です。
 俳句界では、家が近かった事もあり、能村登四カ先生に少し師事しました。
 これらの方々は、師弟関係を離れても交際していましたが、何れも他界しました。

 現役世代としては、京都のアジア文化国際交流会会長“棚橋篁峰”先生が居ります。彼は以前、日中友好漢詩協会を設立しました。
 小生は“棚橋篁峰”先生の中国詩詞壇交流の有り様を看て、触発され彼を真似ました。

 都々逸では、中道風迅堂先生が居ります。

 詩吟界では、詩吟神風流二代目総元の実弟の、詩吟神風流匡風会会長“岩淵匡風”先生とは、近所に住まいすると言うこともあり、詩吟の師弟関係が有りました。
 詩吟は小生の音痴で止めました。師弟関係を離れて数十年、旧知の間柄です。

 中国では、“李芒”先生は数年前に他界しましたが、小生が中国との詩詞交流を始めた最初の頃の御仁で、登仙するまで続きました。

 元中日友好協会副会長“林林”先生と中国外務省文化部部長“劉徳有”先生と、中国書道連盟副会長“林岫”女史の三氏とは、日頃の交際関係があります。他に、中国国内並びに海外華僑の詩詞愛好者、概ね四〇〇名と通常詩詞作品の応酬をしています。

 中国に於いて詩詞の研究討論会は、私的を含めれば、二〇回ほどは参加或いは開催をしています。ただ、葛飾吟社を設立して以降、日本国内漢詩壇諸氏とは、殆ど交流がありません。

 

記事

 私が葛飾吟社を創設したのは1980年の正月です。

 1990年は葛飾吟社創設10周年で、89 年2月に10周年を兼ねた謝恩会が催されました。

 1995年は葛飾吟社創設15周年で、94年2月に15周年を兼ねた謝恩会が催されました。

 2000年は葛飾吟社創設20周年でした。

 2005年は葛飾吟社創設25周年でした。

 2010年は葛飾吟社創設30周年でした。

 2009年は吟社創設満30年達成の年です。この歳は私にとって意義有る年で、創設30年は、万感胸に迫るものがありました。


 2010年1月に、新松戸教室の新年会の折、新松戸教室の諸兄から、今年は30周年だそうですね!
 私たちは、中山逍雀先生の、日頃の恩に報いるため、昨年の忘年会の時に、皆で相談したのです。
 今年の、諸事都合の良い日に、葛飾吟社創立30周年の祝賀と、中山逍雀先生の爲の、謝恩会を開催することに致しました。
 私たちの些細なお礼の気持ちですから、是非ともご承諾頂きたいのですが・・・・と申し込まれました。

 私は、新松戸教室同好の温情に、万感胸に迫る思いがありました。
 有り難く、承諾致しました。

 その折り、東京にも会員が居るのですが、声を掛けて頂けませんか!・・と申しましたところ・・・

 東京神田には、代表理事として、会の実務を代表するする人が居ります。
 私共は若輩者で、日も浅く人数も少ないのです。
 其れに、30周年とも成れば、長年指導を受けた者として、当然代表理事の方が、既に計画している事も多多有るでしょう。
 私共は、先方様のプライドを損ねるかも知れないので、ひとまず、遠慮致します!
 その代わり、こぢんまりと致します・・・と申しますので
 尤もなことなので、承知致しました。

 謝恩会は流山市の料亭柳家で行われました。

 今日までの苦労が報われました!

 30年のあれこれも、みな懐かしい思い出となりました。

 諸兄のご厚情に、今まで続けて好かった!・・・・

  本当にたのしい日でした。

 沢山のお祝いを頂き帰路に就きました。

 新松戸教室会員諸兄の温情に感謝を申し上げます。

  2010年5月 記

 

葛飾吟社創始者
 創始から、平成20年1月12日(土)まで、主宰を勤めていましたが、茲に創始の目的は達成されました。因って、同日、後継者に主宰を引き継ぎました。老兵は早めに引き下がる基本の体制を示すことによって、葛飾吟社が末永く継続されるものと思います。二代目は主宰の名称を会長と改めました。
 私は以後一人の講師としてその任に当たる旨を会員諸氏に諮ったのですが、お飾りとして顧問を名乗るように促され、これからは 漢詩詞同好会葛飾吟社顧問中山逍雀と名乗ることと致しました。

日本漢俳学会創設者
会長

季刊誌《曄歌》主編

中山四短詩発明
中山四短詩提唱者

精彩月刊理事会理事
吉林画報社編集出版 精彩月刊

中華新韵学会顧問

詩吟神風流匡風會顧問

詩苑吟社顧問

中国福建省 《梅櫻詩葉》 顧問

新紐四海詩社基本社友

葛飾吟社中国支社
在黒龍江省 《曄歌》主編

葛飾吟社と私
 葛飾吟社設立当時の私の目標・・・一番有名な人と握手をして写真を撮ろう!・・・は、1997年に達成され、現在の葛飾吟社は、中国全土の漢詩詞壇で知られるところとなった。

 今後の動向は・・・・・
拡大させるのか?
縮小させるのか?
あるいは、会員の何方かが一門を開くのか?
 私はこの歳まで誰に指図されることもなく気儘勝手に生きてきた。棺桶に片足を突っ込んだこの歳になってまで、物事に執着はしていない。葛飾吟社の活動も、ちょっとばかり長すぎたが、今まで過ぎ去った物事と同じ一項目に過ぎないのだ!
 私としては、会員諸氏の意向に任せて、拡大も、縮小も、あるいは、一門を開のも、どれにも拘らない。ただ、漢詩詞の話を聞いてくれる人がいる限りは、今までに習得した漢詩詞の知識を伝授したいと思っている。

 創設当時は私壇もやむを得ない事だが、これからは詩壇としての成長を希望します。

漢詩詞と私

 私が漢詩詞の門に入ったのは日本ですが、知識の殆どは、中国詩人から学んだものです。依って日本国内での漢詩詞云々とは、多少の差異は有りますが、此は、中国漢詩詞壇と日本漢詩壇との詩法知識の相違に依るものです。

 私が黒潮吟社と山陽吟社の門前に立ったのは、四十余歳の頃です。黒潮吟社主宰高橋藍川師と山陽吟社主宰太刀掛呂山師、兩師の下で漢詩の指導を受けました。
 漢詩詞そのものは、文学的価値云々を謂わなければ、創作は差ほど難しい物事ではありません。数年の添削で、日本国内で通用している律絶詩法の殆どは会得してしまいました。依って同好会員の作品に筆を入れる作業(朱筆としてでは無く、文字を操る作業として)を分担したことがあります。

 ある時、高橋藍川師は、並み居る高齢者を前にして、「私が何故に漢詩壇を開いているのか!私の誠意を知って欲しい!社会に還元して欲しい!」との旨を話されました。
 また、太刀掛呂山師は、定例会の席上、会員を前にして、「私は老齢に鞭打って、皆さんに漢詩の講義をしています。皆さんは、私の熱意を貴方の口を通して語って欲しい!」との旨を話されました。

 兩吟社合わせれば、その会員は沖縄県から北海道まで、全国に及び、その数は700名余りで、高橋藍川師と太刀掛呂山師の意志を継いだ漢詩詩壇は全国に有りました。

 私にも、宮崎県、大分県、香川県、大阪府、静岡県、千葉県にと、吟社を創立した先輩が居りましたが、今は、何方もご高齢のため、老境若しくは他界してしまいました。

 私は幾度も、創始者が去った後の詩壇の崩壊を悉に見ております。高い技量を持った指導者が居たのに、その技量を伝えるテキストが存在しないのです。希に有ったとしても、一般教養の域を出ないレベルでした。此では創始者の高い技量の伝授が老境若しくは他界した時点で途絶えてしまいます。

 私が千葉県松戸市社会教育認定団体第310號 葛飾吟社を旗揚げしたのは、41歳で昭和55年・1980年です。当初の10年は右往左往の状態で、漸くにして進むべき道を得たのは、高橋藍川師と太刀掛呂山師が他界した後の事です。

 私は漢詩詞壇設立を発念しましたが、国内で学んだ知識だけでは、中国国内で通用しないことに危惧して居ました。通用しないままに、会員を募ることは無責任ですから、知識充填の納得が行くまで、詩詞壇設立を延期しました。その為に、新たな情報源として中国国内に、指導者を求めました。

 私は中国詩詞壇との連携を求め、滋賀県の大井清老を訪ねました。大井清老のご尽力により、北京の詩人“李芒先生”との知遇を得て、老師が老境に至まで、詩法と添削指導を受けました。

 亦、四川省で大学教授をしていた学者詩人に、添削指導を交渉し、幾許かの添削料を払って継続的に指導を受けたこともあります。

 その間にも、南京の国文学教授を初めとする、多くの中国詩人諸賢に、詩詞応酬に混えて添削指導を所望し、詩法と添削指導を受けました。

 依って、概ねの詩法習得の道筋が出来たので、漢詩詞同好会「葛飾吟社」を設立しました。

 私は吟社を創設するに当たり、次の幾点かを決めました。

1−中華詩詞壇に通用する作品が作れて、中華詩詞壇の諸氏と対等に詩詞討論が出来る知識を保持すること。

2−詩人は心を研ぎ澄ませて、時代の先端に臨まなければなりません。其れには漢詩詞が最も適切です。悠長に花鳥風月を謳っているばかりではいけません。

3−葛飾吟社は、門戸を寛く開き、詩歌の別を問わず交流を盛んにします。

4−先賢老師からもたらされた知識を文字情報に整理して、後継者に引き継ぎます。

5−詩詞作品のあり方に付いては、私なりの意向を持っています。棚橋篁峰氏の文章がありますので、此を引用し、私の意向の表示に代えます。

 「現代韵の問題について
  日本に於いて知る人が殆ど居ない状況で、古典漢詩が現在に存在して居ることは、憂うるべき状況です。更に近体詩を金科玉条の如く考える日本の漢詩界では、漢詩は形式のみを貴しとして、詩人の意境を省みることの少ない風潮を生んでいます。その為、本来自由でのびのびとした詩人の心の叫びは、思うような表現とは成らず、誰の漢詩も同じ様な詩となり、変化に乏しいものと成りました。歴代の詩人が其の詩的生命を賭けて追い求めたものは、実はそのような形骸からの脱出で有ったはずです。我々日本人が本来外国語の詩である漢詩に親しみ、共に育ててきたのは、その詩に込められた、心の叫びが感動を呼び起こしたからに他なりません。現代の日本の漢詩に、それらがあるのかと言えば、残念ながら首を横に振らざるを得ません。」
(注:棚橋篁峰;千葉県市川市生まれ、京都市在住、日中友好漢詩協会会長、中国西北大学名誉教授、中国茶文化国際検定協会会長、渡中國回数並びに中国文人知友の数に於いて、日本に彼の右に出る文化人は居ません。)

6−以後の研究によって獲得した情報を、文字情報として後世に引き継ぎます。

7−創始者には、創始者としての能力が必要ですが、継続させるためには、継続させるための能力が必要です。両方の能力を兼ね備えることは極めて希です。因って、創始者は当初の目標達成を契機に、引き継ぎは早いほうがよいのです。

8−同好会は営利企業と異なり、会員の爲の組織です。諸氏が担任する任務は、会員に広く委ねるべき事柄です。常に後に続く者に配慮して、早すぎるのでは!と言われるくらいが引き時です。

    以上概ね8項

 私は自分も認める、がさつ者ですが、無鉄砲と怖いもの知らずで、高橋藍川師と太刀掛呂山師の煽てを真に受けて、27年前に葛飾吟社を立ち上げてしまいました。

 10年前に中国の詩壇文化人との詩詞交流討論会開催を為し、以後3回の詩詞交流討論会開催を為しました。

 数年前に、私が先賢から教わった基本的な詩詞情報は、総て文字情報として整理が完了し、詩詞の講座も漸く昨年末で、一通りは講じ終えました。
 中国国内で私のために東奔西走して下さった、林岫女史に対しては、日本への招聘を成して、その労に報いました。

 此によって昨年末で、ほぼ私が葛飾吟社を創立した当初の目標は達成されました。そして、今年の正月例会の席上、第2代葛飾吟社会長として、会員一同の賛同により、芋川冬扇氏が決定致しました。

 私は、会員諸氏に、私の如き、山出しの、がさつ者に、長い間付き合ってくれました!と、厚く御礼を申し上げます。
  2008/01/13
         中山逍雀(満68歳) 頓首