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編輯後記

後書き

 前巻で簡単な漢語の構成と詩句の綴り方を説いた。綴り方の練習として四短詩の創作を提案した。

 然し此の練習を怠った事による弊害が現れた。笑えない現実がある。日本語を漢字で綴ってしまう人の居ることである。

 日本語を漢字で綴っても漢語には為らない!

 自分の意思通りに読ませようとする人である。

 

 語句は読ませるものではなく、読まれるものである。

 総ては読者に委ねられる!

 

 日本には漢詩の愛好者は多いが、その殆どは観賞者である。同じ読んで楽しむにしても鑑賞者は少ない。

 俳句や短歌の愛好者が萬単位なのに比べたら、漢詩の創作者は、千人にも満たない寥々たるものである。

 中国文学には詩(広義の)の範疇に漢詩、填詞、楹聯、散曲が謂われており、漢詩、填詞、楹聯、は、一つの詩壇で扱われる詩(広義の)の範疇に入る。(曲は音楽性を加味するので、グループが異なる。)

 著者は長年に亘って中國詩詞壇との交流を、対等の知識で続けてきたが、然し中華詩詞壇に通用する創作法を説ける日本人を知らない。更に、中華詩詞壇諸賢と対等に語り合える日本人を知らない。

 本書の記事は総て、現代中華詩詞壇で通用し、参考掲載した著者の作品は総て、現代中華詩詞壇紙誌に掲載された経緯があり、本講は中華詩詞壇に通用する事を前提に編輯した。

 現代中國での作品は、詩法も、使用する文字も、その意義も、歳月の経過と共に変化して、伝来当初は双方共に、似通っていたであろうが、現代では見た目は殆ど同じでも、互いに異なるのである。

 即ち現代の中国人が創る漢詩を「漢詩」と謂うならば、現代の日本人が創る漢詩の殆どは、「日本漢詩」である。現実に日本の漢詩壇の作品で、中華詩詞壇諸賢に評価された作品を目にしない。

 漢民族が作る詩歌と、日本人が作る日本詩歌との違いを、掻い摘んで述べれば、漢民族の詩人は国家国民の爲に憂い、自己の思いを他者に知って貰うために作品を作り、他者に語り掛ける意図が作品の根底にある。

 其れに對して日本の詩人は、自己のために愁うのである。因って作品は、告訴意図が稀薄で自己詠嘆が主流となる。

 更に、日中双方の歴史を辿れば、共通である方が希有で、共通でないことの方が当然である。

 因って著者は漢詩詞の学習を、中國側から指導を受ける事にしたので、本書の記述は現代中華詩詞壇通用の詩法である。

 なお本稿の記述は、総て中國で出版された書籍と、在中國の友人から獲得したものである。

 本稿に倣って創作した作品なら、海外の何処に出しても、其れなりに評価の対象になる。

 何事にも締め括る時には、多少の未練は残るものである。本稿も校正段階に入って、文字の確認をしていると、新たな詩法や、新たな作品を目にした。余程本文に追加しようかと迷ったが、幾つか追加しても、しなくとも、本書の本旨には、さしたる影響もないので、追加しないこととした。

 

ご案内

 このテキストは著者が長年に亘って学習した漢詩詞知識を、集大成したものです。

 資料の大半は中国国内の諸賢より直接に習得した知識です。依って本講では、日本国内には、詩法知識として、その語句そのものが存在しないものもあります。

 日本の詩歌文化が、そのときどき、民衆と共に有るのと同様に、漢詩詞も中国人にとっては、時代の趨勢と共に、民衆の身近にあるものです。

 現在の作品は、現在の民衆と共に有るのです。小生は、作品の相互交流を前提にしていますので、西暦2000年に通用する句法詩法を説いています。

 依って、日本の古典漢詩に擬える創作を為さる立場からは、その作品との間に相異が有ることは、考えられます。この問題は、ご自分の作品を現代の中華詩詞壇に通用させ、評価の対象にするか否かの、前提に関わります。

 

 この著作物には著作権があります。利用者は法を遵守して下さい。

  2009/11/08

         著作権者 中山栄造

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