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漢詩講座上級編
1999年3月21日記載 
漢詩とは 本稿は作詩詞者を対象に書かれています。鑑賞者とは自ずから意見を異にすることを予めご了承下さい。
 詩経には詩の定義として「詩は志をいう」と記されている。
 「志」とは大義名分と解釈する人が多い。漢詩をほんの少し勉強して、詩経などを読むとその言葉を知り、事有る毎に持ち出す。
 だが中国の過去の作品をいくら読んでも、大義名分を振りかざした作品に出会ったことがない。其処で日本人の言う「志」の意味と中国の其れとは意を異にする事を知る。
 日本人の誰が一体そんなことを言ったか、誰がそう解釈したのか知らないが、日本人の漢詩と称する作品には、大義名分を振りかざした作品が実に多い。
 中国人の作品は過去で有れ現在で有れ「胸の内」を詠う作品で占められる。志とは「胸の内」と理解するのが妥当である。
 日本人の漢詩作品は、最初の定義を間違ったが故の、詩歌の形を借りた詩歌でない作品が実に多い。
 漢字を見ただけで恐れ入って、特別の詩歌のように想っている人が実に多く、其れがまた誤解の上に誤解を重ねる結果をもたらした。
 漢字は難しいが、漢字で書いてあるから立派な作品とは限らない。中には酷い物まで大手を振って出回っているので、玉石混淆と言いたいところだが、玉には余りお目に掛かっていないので玉石混淆と言わして貰おう。
 平たく言えば、漢詩とは中国で中国人が自国の文字で綴る詩歌である。日本人が日本の文字で綴る詩歌と少しも変わったところがない。
 此処まで言えば、漢詩は俳句や川柳や短歌や都々逸と少しも変わったところがないと、解って戴けたと想う。ただ叙事法など構成面では文化が違うのだから大いに異なる。だが骨子は同じである。
 作品の善し悪しは、偏に作詩者の胸に秘めた心の熱さによる。技巧はその次の次の要件である。見栄えが如何に稚拙であっても、胸の想いが熱ければ読む者の心を打つ。絵空事で作った作品は、如何に技巧を凝らしても再読には堪えない。
 このことは漢詩に限らず、どんな事柄にも言えることで、近頃若者の歌謡が海を渡って、異文化人まで胸躍らすのは、其処に胸が張り裂けんばかりの情熱がこもって居るからである。
 漢詩は、何度でも読み返すことが出来、何度でも対面することが出来る。作品は作詩者の分身で有って、何時でも読者と相対して存在する。
 作詩者の立場からすれば、作品が読者に押し切られたとき、作詩者の価値も消滅する。
 読者に押し切られない作品を作るには、日々の心の鍛錬以外に方法はない。技巧はその次の次の要件であろう。

 絶句とは
 日本では絶句の種類として文字の数によって《七言絶句》《五言絶句》の二種類に大別され、その各々が《平起》と《仄起》の二種類とされ、都合四種類である。
(これらの他に多少規格を外した作品も拗体と言う名称で絶句の範疇に入れられている)
 ここで一つ問題がある。日本では「平韻」の詩だけしか絶句の範疇に入れられていない。即ち「仄韻」の詩は絶句の範疇に入らず、古詩の範疇に入れられていて、現在中国での認識とは異にしている。
 枝葉で細々述べても埒があかないので、論拠を現在中国の研究論文を拠り所にし、根幹から説き起こし絶句の姿に迫ってみよう。
 中国の詩歌は、歌謡民歌の類から徐々に形式を整え、《詩経》に掲載される作品の如く、短句の寄せ集めから、徐々に長句長編へと変遷していった。
 短句から徐々に文字数を増して、長句長編に到ったという経過ではなく、飛び飛びに長句長編に発展し、絶句は相当後になってから成立した詩形である。
 中国に於いてアクセントに対する考えが整理され、今まで口ずさみに依って取得されていた詩歌のリズムが、形式化されるようになった。
 これが現在言う「平仄と韻の組み合わせ」、即ち絶句の形式である。
 絶句は、既存の詩歌より派生した形式で、その一つに律詩、その一つに古詩がある。律詩は絶句の生まれる以前に成立した挌律詩歌で、総ての形式が平韻で統一されている。此の半分を断ち切れば「平起」「仄起」の二種類の形式が出来る。これが現在の日本で言われている「絶句」に当たる。
 もう一方の古詩からも、リズムが形式化された挌律詩が誕生した。当然の事ながら古詩は平韻仄韻を問わないが、平韻の形式は律詩から派生した形式が有るので、仄韻の形式のみが誕生した。
 現在では律詩から派生した平韻の詩を「律絶」古詩から派生した仄韻の詩を「古絶」と称する。

余談
 現在の中国でも、詩歌は唱う事を前提にしているので、自ずと詞にも制限があるし、リズムにも制限がある。
 耳を持たない日本人には無理も無かろうが、古詩は旋律自由という認識は当たらない。 詩や詞には歴史に培われた旋律譜(楽譜が存在する)があり、それに倣って唱われるので、自分勝手に気儘に唱っているのではない。
 日本の中国関係書籍には、古来から伝わる楽譜は既に散逸し存在しない、と述べられているが、実際には詩詞の楽譜は存在し、新本が売られている。
 現在の歌謡界を見ても、日本の歌が海外で大いに歌われている。其れには確たる原則がある。詞は
その国の言葉に直すが、リズムは変えない。リズムは唄の根本要素だからである。
 歌謡界の例を見ても分かるように、先方の作品を唱うには、当然の事ながら言葉は自国語に訳しても、先方のリズムで唱うことが音楽としての前提で常識でもある。
 日本の漢詩吟詠は、言葉もリズムも自分の都合に合わせて変えている。音楽としての認識や国際性についての認識を疑われても仕方有るまい。独自性を主張すればお茶は濁せるが、本質的な論旨からはほど遠い。
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