漢詩詞創作の基本姿勢 中山逍雀漢詩詞創作講座 Top

漢詩詞創作の基本

 何をどんな思いで綴るのか?此を詩想という。詩想には二つの要件がある。

 対象の大小と記載内容の多少である。

 対象の大きさとは、大宇宙から米粒までの、見た目の大きさである。記述内容の多少とは、情報量の多少である。

 依って情報量が少なくとも、対象は大宇宙から米粒まで扱えるが、記載内容を多くは出来ない。依って内容は極處を扱うこととなる。

 情報量が多ければ、対象は大宇宙から米粒まで扱え、記載内容は多く出来る。依って、あらゆる物事を対象とすることが出来て、而も内容は深く繊細にすることが出来る。

 漢詩詞は僅か十字の曄歌から七言古詩まで、白楽天が詠む「長恨歌」は百二十句で、楚辞に於ける「離騒」や「天問」などは三百七十五句に及んでいる。依って漢詩詞は極處を扱う詩想から、広汎を扱う詩想まで、萬般に対応できる。

 一概に「詩」と言っても、使用する語彙によって、口語と書面語と詩語の三通りがあり、定型と非定形もある。定型も曄歌から始まって古詩まで、かなりの数がある。

 詞は竹支から始まって十六字令、鶯啼序240字まで、通常使用する定型でも概ね100定型はある。

 楹聯は定型と非定型がある。楹聯と言えば殆どが非定型で通常作品の類例は十指に余りある。定型として羊角對・笠翁對韵・律蒙對韵などがある。

 訴えようとする思いと定型は、内容物と器の関係にある。器を選んでから内容物を入れるのではない!内容物に合う器を選ぶのである。

 心の一隅、小さな襞を述べるには、小さい器の曄歌が選ばれるし、人生の襞を述べるのなら、鶯啼序も良かろう。または古詩で心の赴くままに構成するのも良かろう。

 気の利いたことを述べたかったら、楹聯も良かろう。軽い気持ちで人情の機微を詠うには、口語詩も良かろう。程ほどの事柄を体裁良く述べるのだったら、絶句も律詩も良かろう。

 人には述べたいことが沢山ある。事柄も千差万別ある。器も各種必要で、詰め方にも技巧が必要なことは、当然の理である。

 次に、漢詩詞は作品題・序文・作品・注の四っに依って構成される。作品題とは、作品の概要を述べることが、その役割である。依ってその作品に相応しい語彙が配される。

 作品の本旨は作者の情で有るが、その情を顕す手段として概ね、叙景題・抒情題・叙事題・詠物題の四っが有る。

 作品題は、作品の概略を述べる、作品の入り口に当たる部分である。読者は作品題を読み、作品の幾つかの語彙を読めば、作品の大凡の趣旨は読み取れるのである。依って作品題は作品にとって重要な要素である。

 依って「無題」と記された作品であっても、題がないのではなくて、無題と謂う作品の趣旨で有ると理解すべきである。

 作品題は内容に繋がり、内容は「韵に」繋がり、詩法句法にも繋がりを持つ。心の響きである聲に対して、韵書での取り扱いは、声を構成する 聲母・韵頭・韵腹・韵尾・聲調の中、概ね韵腹・韵尾・聲調の要素を対照として、個々の韵目を設けて分類している。

t i a n -(陰平)
聲母 韵頭 韵腹 韵尾 聲調

 韵腹・韵尾・聲調の三要素は感情に関わりを持つ要素であり、押韵とは韵字に類を同じくする文字を用いる事であり、自ずとその句は、その韵の根底にある要素を継承し、作品そのものの傾向に影響を及ぼす。

 叙事内容と押韻について語られることは少ないが、心の響きは先ず聲によって現され、その聲は、感情によって自ずと類を為す。その聲は文字によって保存される。依って感情と文字は一連を為し、自ずと類を為す。依って韵目と叙事傾向は自ずと類を做のである。類例は次のWave Sightを参照されたい。

http://www.741.jp/kouza07/kou-07A34.htm

 漢詩詞の構成は曄歌の三句から「離騒」や「天問」などは三百七十五句の作品まで、初句から末句まで首尾一貫していて、読み進めば作品内容が読み取れる仕組みである。これは漢詩詞の根幹を為し基本構成で、構成には四っの要件があり、叙事法・定型・句法・對法 の四っで有る。

 分かり易いように、料理に置き換えてみると、次のようになる。

 香の物などの小皿単品は曄坤偲瀛:丼物は漢俳:一汁三菜は絶句:幕内弁当は律詩:その時時の母さんの都合で変わる家庭料理は古詩:来客時の料理は填詞或いは古詩の場合もある。

最も小さい定型に、曄坤偲瀛歌、或いは竹詞がある。小さいことを述べるのに大きな器は要らない。ただ器が小さいので、大きな事は入らない。心の襞の様な、小さいことが専門で、心底の情を写すには最適である。

 程ほどに腹を満たすには丼物がある。丼物は限られた容積だから、どれも此も入れると謂う訳には行かない。食材は三品ぐらいで、其れが巧く組み合わさって、料理の態を為している。ただ丼物はどんなに頑張っても、丼以上には成らない。漢俳や十六字令は此に属す。

 一汁三菜は質素ながらも一通りの要件は満たしている。だが此も毎日では物足りないし、飽きてくる。一汁三菜でも工夫次第で、どんな料理でも出来るかと言えば、そうは成らない。一汁三菜は、どんなに食材を選び、調理方を工夫しても、一汁三菜以上には成らない。自ずと限度がある。絶句はこの類に属す。

 幕の内弁当は構成が実に巧くできている。弁当箱の仕切りが程ほどにあって、食材の数も程ほどに入れられる。幕の内弁当の利点は、一つ一つの調理は、それ程上手でなくとも、仕切り升に詰め込むと、誰が作っても、程ほどの幕の内弁当が出来る。これは律詩の特徴である。

 見方を代えて、家庭料理は母さんの愛情が最も重要である。愛情に乏しいと、フアミレスやコンビニの総菜を皿に並べただけとなる。

 見た目は程ほどだが、美味くもなく不味くもなく、家庭料理としては落第である。作者の思想に関わりなく宛がわれる課題詩が此にあたる。作者の意思に関わりないから、耳障りの良い詩語を類型に倣って並べる。此は練習法ではあるが、作品ではない。

 料理は、母さんの愛情が有るか無いかで、美味い不味いが決まる。愛情がなければ、既に母さんの料理ではない。下手な料理でも愛情が溢れていれば、其れはとても美味しい。その愛情が料理の善し悪しを決める。

 次に創作者には自己意思、即ち個性が必要である。自分の人生観、人となりを意識している必要がある。長年に亘って培われた人生観があるからこそ、詩詞創作によって、自己の思いを何方かに訴えようとす事が出来る。

 詩想を導き出すにはその前段階として、題材の何処を掴むか、どう扱うかと謂う問題がある。掴み方を類例化すれば、類例は限りなく有るが、本稿では、七つの題材に対して七つの舒法を類例化し四十九の類型がある。次のWave Sightを参照されたい。

http://www.741.jp/kouza08/kou-08C07.htm

 何をどんな心がけで綴るのか?其れは、自分の考えを人様に聞いて貰う事である。読者の側から言えば、語りかけてくる作品を謂う。

 馬鹿馬鹿しく思えるかも知れないが、此が解らないと作品は出来ない。自分の考えを綴ると言うことは、人様に聴いて貰いたいと言う前提での、自分の考えである。

 人様に聴いて貰うとは、自分勝手に言うのではない。相手が一緒に聴いてくれる!聴いて貰えると言うことがなければならない。

 これは作品の心髄で、作者の訴えようとする意欲が最も重要な要件である。漢詩詞の創作には先ず訴えたいという意志と、訴えたい相手と、それを綴るための詩法が必要で、其れには、客観視の能力が必要である。

 私意を訴える対象には、友人や親族、或いは社会や国家、或いは、相手が自分で差し支えない。

 相手が自分の場合は、客観的立場に立っている必要がある。客観的立場に立った創作者が、現実社会に居る自分に対し、詩詞創作という手段を使って思いを述べるのだ。自分が己に宛てて思いを述べる点では、独白体にも、似てはいるが、漢民族詩歌では、独り言の作品は滅多に見かけない。

 創作者の中には「私は読んで貰うことを前提にはしていない!自分の思いを漢詩にしているだけだ!」と言う人が居るが、作ることは勝手だが、この様な作品は海外詩詞壇では評価されない。

 漢詩詞創作に当たって笑えない現実!が有る。作品は相手に読まれて、或いは聴かれて、作者の意図が理解されてこそ、作品として成り立ち、日本人が作る漢詩詞作品も、日本人だけではなく、漢民族に通じ、理解されて、初めて作品として成り立つのである。

 もし、漢民族には読めない!或いは耳で聴いても解らない!のであれば、其れは作品としては成り立たない。読んでくれるのは、歴史上の漢民族ではなく、現代の漢民族、言い方を変えれば、現代社会の中国人である。

 文法に適ってさえいれば、中国人にも読める!語彙が正しければ読める!とは限らない。日本人にも謂えることだが、中国人も普段は複雑な構文も、古典文法も、古典語彙も古典漢語も、総てを識っているわけではない。

 日本の漢詩愛好者の幾人かは、この現実を考慮せずに、作品を作る。その結果、日本国内では評価されても、中国国内では評価されない。実を謂えば、評価されないのではなくて、中国人には読めない!或いは作者の意図と同様に読み取って呉れているとは限らないのである!

 漢詩詞作品は、中国人に読めて、趣旨が理解されて、初めて作品として成り立つ。此は作品の巧拙以前の、笑えない現実である。

 もう一点、日本の漢和辞典に書かれている説明と、中国の辞典に書かれている説明と、必ずしも一致しているとは限らない。依って余りゴテゴテ述べると、日本側の趣旨と、中国側の趣旨が離れてしまう事もある。この弊害を避けるには、簡潔に述べなければならない。 

 此の愚を避けるためには、簡単な構文で、簡単な語彙で、簡潔に述べる事を忘れてはならない。

 日本で何気なく用いられている沢山の動詞や副詞は、その幾つかは既に「古漢語」として扱われている場合がある。日本人は何気なく使っても、中国人には古漢語辞典を検索しなければ読めないのである。

 この様な現状に鑑み、詩句は簡単明瞭に綴らねば成らない。記載内容は文化によってその認識が異なるので、その弊を少なくするためにも、明瞭に述べる事に勤めなければならない。

 漢民族詩歌の依拠するところは、過去に於いても現代に於いても、生活に密着している。生活とは、個人を取り巻くあらゆる事象、即ち国際情勢・国内情勢・地域情勢・政治・官民・近隣・親朋・夫婦・親子・自分自身・・・等である。依って故意に作らぬ限り、現実から離れた作品は作らない。

 日本人の作品に対し中国人の評は、「形式は整っているが、内容に乏しい。書物の入っていない豪華な文箱である」謂う。

 中国人の漢詩詞創作の基本は、先ずは中身であり、詩想の趣旨であり、これが書物にあたる。次にその組み立ての詩法句法は、文箱にあたる。

 だから、美しかった!美味かった!面白かった!悲しかった!嬉しかった!感激した!・・・・等は、自分自身のことで、相手への情熱が、いま一歩不足で、中華詩詞壇では、評価される作品には成らない。

 漢詩詞は漢民族の詩歌、即ち外国語の詩歌である。日本に漢語が伝来したのは相当に古い時代である。それから今日まで焚書坑儒の様な文化的に過酷な時代を経ていないので、古い時代の文化情報が継承され温存されている。

 それに引き替え、中国では近年の共産党革命、文化大革命などの焚書坑儒に依って、文化人の被害は甚大を極めた。殺戮と混乱の文化大革命も1977に収束し、その10年後、僅かに生き延びた文化人によって、1987年に、中華詩詞学会が設立され、1994年に会報第一号が出版された。僅かに生き延びた文化人によって、文化の復興が模索され、現在はその途次である。

 依って日本で謂うところの漢詩詞と、中華人民共和国の漢詩詞とは、あながち同じとは謂えない。中国詩詞壇誌に依ると、漢詩詞を綴るには、まず、口語を不可とし、書面語を基本にして、古典作品の詩語を適宜用いること、と謂う程度で、日本で謂うほどの厳格さは謂われていない。