楹聯 中山逍雀漢詩詞詩余点創作講座 TopPage Home pageこちらからお探し下さい

楹聯

 楹聯は詩詞と句法は殆ど同じだが、楹聯だけに興味を抱く人もいるので、茲に一項を設けた。

 律詩の要は對仗で、對仗は對聯を為している。ただ后に對仗だけを専ら用いた對聯を楹聯と喚ぶように成った。庁堂の前の柱を楹と謂い、楹柱に對聯を書き、此が楹聯である。

 楹聯を説くには先ず楹を説かねば成るまい。漢代以前の中国にはとても大きな庁堂が有って、その時代の楹柱はただ装飾として用いられ、對聯は無かった。それでは何時から楹聯の習俗が起こったのか?

 古くからの言い伝えによると、春節の期、門前に一対の除邪去病、納瑞迎祥の木札を取り付けた。南朝《荊楚歳時記》に依ると、五行之精、能制百鬼の護符を仙木と謂って、《風俗通》に依れば、上古の時、神荼(魔除けの草)が有って、郁壘兄弟二人が虎退治をした。

  そして縣官は大晦日の夕方に、虎の画を門に下げて飾っていた。後の人は達は板を削って掲げた。板には、郁壘二人の像と魔除け草と、二人の名前を書いた。そうする事に依って鬼害の進入を抑えた。此は最も早い時期の門神で、唐代に成って、李世民が病気に罹ったとき門神に依って病が好転し、後に像は多くの画家によって門神として作られた。

 私の小さいとき紙に書かれた門神を買ってきて、一人は白顔、一人は黒顔で、魔除け草は書かれていたが、郁壘は書かれて居なかった。また有る家には赤い紙に魔除け草と郁壘の二字で對聯を為していた。

 王安石《元日》詩に“爆竹聲中一夢除,春風送暖入屠蘇,千門萬戸瞳瞳日,総把新桃換舊符”この事から、北宋の時代には風俗習慣と成った。宋の《歳時廣記》には護符板上に聯語を書くのは五代后蜀の時代に開始されたと記載されている。五代后蜀主孟昶は蜀亡前一年(公元965年)年末護符板上に“新年納余慶,佳節賀長春”と書いた。此は災を消し、春聯は即ち是福を祷り当然にこれらは吉慶の語である。常に大門堂上に有って、框上の文字は七字句で有る。“壽比南山松不老,福如東海水長流”の類である。

詳細解説

曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律自由漢詩笠翁対韻羊角対漢歌漢俳填詞詩余元曲散曲楹聯はこの講座に記載があります