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対象と自己 TopPage

 詩詞の本義は自己心情の発露で有る。看て聞いて触って想って擬らえて等々色々な場面が有るが、それらを土台にして現在の自己心情を著すのである。

 目前の景色を見て自己の心情を著すなら、景色も自己も同一の次元に属す。過去の風景を思い浮かべて自己の心情を著すなら過去と現在、将来を想像するなら現在と未来など、自己とは時空を異にする。

 映画やテレビ、書籍などに対象を置くと、虚の対象物と実の自己との間で、虚と実の関係が生じる。これらの関係を曖昧に放置すると、模糊として切れ味に欠ける作品になって仕舞う傾向がある。


異次元

 人気漫画「どらえもん」のポケットには、其処を通ると何処にでもゆける「何処でもドア」と云う便利なものがある。彼らは其処を通って時々、現実の社会から離れた別世界にジャンプする。

 実はこれと同じものが中国には昔から有った。日本の庭は生活の場としての住居から連続して、自然の景観を含めた小宇宙を形成している。勿論中国にも、生活の場と連続した庭は有るが、それとは別の形態として、生活の場とは切り離された庭が存在する。

 四方が塀で囲まれ物理的にも隔離されてはいるが、一つの象徴的な構造として、丸い穴のような通路がある。この丸い穴の出入り口こそが、タイムカプセルの出入り口なのである。この丸い穴を通れば、月の世界でも、空想の世界へでも行けるのである。

 詩詞でもこれと同じ構成を援用することが出来る。ただ、異次元と視点場の移動と違う点は、視点場は何処に換わっても、現実社会の延長上にあるが、異次元は、現実社会の延長上には無い、連続性が無いと云う点である。

 現実の社会につながりを持ち、あるいは帰還した場合はどうなるのか?この場合は「興」と言う詩法となる。異次元とは最後まで繋がりを持たず帰還しない作品と定義する。

 帰還しなかったらどうなるのか?その判断に窮するが、詩詞が作者を離れて、自由な世界で遊ぶ「言霊詩詞」という事としよう。

    七絶・吟 志   石倉鮟鱇
  天人泳處天如水,風漢吟時風永言。
  艶艶櫻雲傾盞處,飛花化蝶舞仙仙。 (普通話韻)

 

     七絶・偶 作  石倉鮟鱇
  月照歡情映翠檐,花開醉境吐紅炎。
  楚々仙女翻風袖,舞態嬋娟香暗添。

 上記の二首は、異次元世界のことを詠っている。句の中では、現実世界への繋がりは何も述べられていない。(原作は2首とも完全には離れていなかったので、語句を入れ替えて離した)

  野猿
深山古木属吾家,古幹新枝翠幕遮。
育仔玩時天所許,離群聳樹見昏鴉。

 この作品は、天女や仙女と違って、地球上に存在する世界である。我々は人の群れに棲息するのだが、野猿は人の世界以外のところで、生活する。

  泥人形 調寄桂殿秋
塵不穢,玉為肌,几上彫塑未知悲。紅唇向誰語,秋恋春謳,歳月遅々。

  路傍之大樹
路傍之大樹,不知夏幾回。昔日憩童子,今日被車埃。

 ただ何れの作品も、作品自体は異次元に有るが、読者が四次元に引き込むことは可能である。此は作品の問題ではなく読者の意図の問題である。

 異次元世界にって、行きっぱなし。現世とは何の繋がりもない作品。こういう作品がないわけではない。編者はこういう作品を「言霊詩詞」と命名した。言霊詩詞は、作品そのものが「格」を持って仕舞うのである。

 

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