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騒体

 騒体は紀元前三百年頃、楚の國の詩歌「楚辭」が起源となる。当時楚國の詩人屈原の作品に「離騒」と言う名作がある。

 後世の人は、本来は楚の國の詩歌を楚辭と言うべき所、屈原の作品「離騒」が余りにも有名なので、楚辭と言わずに「騒」と言うようになった。そして楚辭の形態を踏襲する作品を「騒体」と言うようになった。

1−騒体の特徴は、定まった句式が無く、句の文字数も揃っていない。

2−作品の句数に制限がない。

3−押韻は厳格でなく、押韻してある所と、押韻していないところがある。

4−句中又は句末に「兮」「些」「只」の様な字を付ける。

5−作品の中に「兮・些・只」などが使われ居てれば、何時の時代に創っても「騒体」の作品と成ると謂われている。
  註:兮・些・只などは、語調を調える助字。
  

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漁父辭         屈 平(屈 原)

  屈原既放遊於江潭行吟澤畔顔色憔悴形容枯槁漁父見而問之曰子非三閭大夫與何故至於斯屈原曰擧世皆濁我獨清衆人皆醉我獨醒是以見放漁父曰聖人不凝滯於物而能與世推移世人皆濁何不濁○其泥而揚其波衆人皆醉何不餔其糟而欠○其釀○何故深思高擧自令放爲屈原曰我聞之新沐者必彈冠新浴者必振衣安能以身之察察受物文文○者乎寧赴湘流葬於江魚之腹中安能以皓皓之白而蒙世俗之塵埃乎漁父莞爾而笑鼓竡ァ去乃歌曰滄浪之水清兮可以濯吾纓滄浪之水濁兮可以濯吾足遂去不復與言
注;Waveで表示できない文字は同義字で充当してあります。

以下InternetSight転載

 屈原(343-277BC)は戦国時代に楚の懐王に仕えて、内政、外交に手腕を発揮しました。当時、楚、斉は秦の脅威にさらされていましたので、彼は楚、斉が同盟して秦に対抗する策(合従ガッショウ)を推進しました。一方、秦の保護下に入って安全を図る策(連衡レンコウ)を主張する勢力も強く、国論は二分していました。
 このとき、秦は楚を孤立させて滅ぼす陰謀を企てます。まず懐王に領土割譲を約束して楚斉同盟を破棄させ、屈原を追放させます。その挙句、秦は領土割譲の約束をまもりません。激怒した懐王は秦へ出兵しますが散々に破られます。
 そこで懐王は屈原を再起用して態勢挽回を図ります。その後、秦は和親を名目として懐王を呼び寄せます。屈原は、懐王の入秦に反対しますが容れられず、懐王は入秦してそのまま捕らえられ3年後に客死します。
 懐王の後に頃襄王がたち、屈原は讒言によってまた追放されます。それから楚はますます衰え、遂には秦に滅ぼされます。屈原は、滅び行く祖国の前途を見るに忍びず、泪羅(ベキラ)の淵に入水自殺しました。
 屈原は優れた政治家であったばかりでなく、大詩人でもありました。讒言にあって斥けられたとき、「離騒」の中で次のように詠っています。

 名は屈平、字が原である。戦国時代後期に楚の王族として生まれた屈原(くつげん)は、懐王(かいおう)から信任を受けて左徒の官に任命され、主として法律関係の仕事を行った。屈原は博聞強記で治乱興亡のあとに明るく、文辞詞章に長けていた。

 ある時、屈原の才能を嫉んだ上官太夫が懐王に「屈平は自分の功を誇り、驕っている」と讒言した。懐王は怒って屈平を遠ざけた。
 その後、懐王が張儀(ちょうぎ)に騙され秦に出兵したが、この時、屈原は斉に国交回復の使者として赴いている。
 前二九九年、秦の昭王が懐王に会盟を求めてきたが、屈原はこれに反対。しかし懐王は臣下の子蘭(しらん)の進言を採り、秦に赴いて囚われの身となる。
 楚では代わって頃譲王(けいじょうおう)が即位したが、四年後、懐王が秦で釈放されぬまま憂死したこともあって、屈原は子蘭を憎んだ。一方の子蘭も屈原を妬み、頃譲王に讒言したため、屈原は再び江南に流された。
 やがて彼は滅亡の危機に瀕する祖国を憂いながら、五月五日に汨羅(べきら)に身を投じて、人生の幕を閉じたのであった。

 「楚辞」と呼ばれる詩は彼の創始によるもので、後世の詩に絶大な影響を与えた。
 屈原の詩の代表作は「離騒」「九歌」「天問」「九章」がある。屈原の人柄を最もよく表していると言われる「漁父辞」は、実は屈原の自作ではないとの説が有力らしい。

漁父辞
屈原既放
游於江潭
行吟澤畔
顔色憔悴
形容枯槁
漁父見而問之
子非三閭太夫與
何故至於斯
屈原曰
與世皆濁
我独清
衆人皆酔
我独醒
是以見放
漁父曰
聖人不凝滞於物
而能與世推移
世人皆濁
何不乱其泥
而揚其波
衆人皆酔
何啜其汁
何故深思高挙
自令放為
屈原曰
吾聞之
新沐者必弾冠
新浴者必振衣
安能以身之察察
受物之紋紋者乎
寧赴湘流
葬於江魚之腹中
安能以晧晧之白
而蒙世俗之塵埃乎
漁父莞爾而笑
鼓(木世=えい)而去
乃歌曰
滄浪之水清兮
可以濯吾纓
滄浪之水濁兮
可以濯吾足
遂去不復與言
屈原 既に放たれて、
江潭にあそび、
ゆくゆく沢畔に吟ず。
顔色 憔悴し
形容 枯槁せり
漁父見て 之に問うて曰く、
子は三閭太夫にあらずや、
何の故にここに至れる。
屈原曰く
挙世 皆濁り、
我、独り清めり。
衆人、皆酔い
我、独り醒めたり
是(ここ)をもって放たれり。
漁父曰く
聖人は物に凝滞せずして
よく世と推移す。
世人 皆濁らば
世人 其の泥をみだして
其の波を揚げざる。
衆人 皆酔わば、
何ぞ其の汁を啜(すす)らざる
何の故に深思高挙して、
自ら放たれしむるを為すや。
屈原曰く
吾、之を聞く
新たに沐する者は必ず冠を弾き
新たに浴する者は必ず衣を振う と
いずくんぞ能く身の察察たるをもって、
物の紋紋たる者をうけんや。
寧ろ湘流に赴いて
江魚の腹中に葬らるるも、
いずくんぞよく晧晧の白きを以って
世俗の塵埃を蒙らんや
漁父 莞爾として笑い
えいを鼓して去る
乃ち歌って曰く
滄浪の水 清まば、
以って吾が纓(冠の紐)をあらうべし
滄浪の水 濁れば、
以って吾が足をあらうべし
遂に去ってまたともに言わず



【詳細訳】

 屈原は放逐されて江や淵をさまよい、詩を口ずさみつつ河岸を歩いていた。顔色はやつれはて、見る影もなく痩せ衰えている。一人の漁夫が彼を見付け、尋ねた。

「あなたは三閭太夫さまではございませぬか。どうしてまたこのような処にいらっしゃるのですか?」

 屈原は言った。

「世の中はすべて濁っている中で、私独りが澄んでいる。人々すべて酔っている中で、私独りが醒めている。それゆえ追放されたのだ」

 漁夫は言った。

「聖人は物事に拘らず、世と共に移り変わると申します。世人がすべて濁っているならば、なぜご自分も一緒に泥をかき乱し、波をたてようとなされませぬ。人々がみな酔っているなら、なぜご自分もその酒かすをくらい、糟汁までも啜ろうとなされませぬ。なんでまたそのように深刻に思い悩み、高尚に振舞って、自ら追放を招くようなことをなさったのです」

 屈原は言った。

「ことわざにいう、『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠の塵を払ってから被り、湯浴みしたばかりの者は、必ず衣服をふるってから着るものだ』と。どうしてこの清らかな身に、汚らわしきものを受けられよう。いっそこの湘水の流れに身を投げて、魚の餌食となろうとも、どうして純白の身を世俗の塵にまみれさせよう」

 漁夫はにっこりと笑い、櫂を操って歌いながら漕ぎ去った。

「滄浪の水が澄んだのなら、冠の紐を洗うがよい、滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい」

 そのまま姿を消して、彼らは再び語り合うことがなかった。

 

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