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建安体

 建安は漢の献帝の年号(紀元前196年から220年)である。建安体は当時の曹操、曹丕、曹植、という親子と「建安七子」(孔融・陳琳・王燦・徐幹・阮羽・應陽・劉驍フ七人)の詩を指す。
 建安時代は詩歌の繁栄期である。曹氏親子と「七氏」の中の王燦が中国詩歌史に於いて、重要な存在である。彼らは、漢時代の古詩の伝統を継承しながら、楽府詩の現実主義の影響も受けていた。同時に古い伝統を乗り越え、革新的な精神を持っていた。
 剛健な風格と、切実な内容を見せ、斬新な詩風を作り出している彼らの作品は、後世に大きな影響を与えた。

       曹操      曹丕

  曹操 短歌行
對酒當歌,人生幾何。譬如朝露,去日苦多。
慨當以慷,幽思難忘。何以解憂,唯有杜康。
青青子衿,悠悠我心。但爲君故,沈吟至今。
□□鹿鳴,(□;口+幼)食野之苹。我有嘉賓,鼓瑟吹笙。
明明如月,何時可綴。憂從中來,不可斷絶。
越陌度阡,枉用相存。契闊談讌,心念舊恩。
月明星稀,烏鵲南飛。繞樹三匝,何枝可依。
山不厭高,海不厭深。周公吐哺,天下歸心。

 

 「歩みて夏門<(かもん)>を出ずる<(うた)>
神亀雖寿  神のごとき亀は寿<(いのちながし)><(いえど)>
猶有竟時  なお<(おわ)>る時有り
騰蛇乗霧  <(のぼ)>る蛇は霧に乗れど
終為土灰  <(つい)>には土灰と為る
驥老伏櫪  老いたる<(うま)>(名馬)は<(うまや)>に伏すとも
志在千里  <(こころざし)>は千里に在り
烈士暮年  烈士<(れっし)>は暮年にも
壮心不已  壮心<(とどめ)>あえず
盈縮之期  <(なが)>きと<(みじか)>きの期<(さだめ)>
不但在天  <()>だ天のみにあらず
養怡之福  <(よろこび)>を養い福に<()>けば
可得永年  永き年を<()>べきなり
幸甚至哉  幸は<(はなは)>だしく至れる<(かな)>
歌以詠志  歌いて<(もっ)>て志を<()>まん

 

  於清河見輓船士新婚與妻別  曹丕
與君結新婚,宿昔當別離。涼風動秋草,蟋蟀鳴相随。
冽冽寒蝉吟,蝉吟抱枯枝。枯枝時飛揚,身體忽遷移。
不悲身遷移,但借歳月馳。歳月無窮極,會合安可知。
願爲雙黄鵠,比翼戯清池。

 

  七歩詩 曹植
煮豆持作羹,漉鼓以爲汁。
○在釜下燃,豆在釜中泣。
本是同根生,相煎何太急。
○;豆殻

 

  孔融 臨終詩
言多令事敗,器漏苦不密。
河潰蟻孔端,山壊由猿穴。
涓涓江漢流,天窓通冥室。
讒邪害公正,浮雲翳白日。
靡辭無忠誠,華繁竟不實。
人有両三心,安能合爲一。
三人成市虎,浸漬解膠漆。
生存多所慮,長寢萬事畢。

 

  雑詩 王燦
日暮遊西園,冀寫憂思情。
曲池揚素波,列樹敷丹榮。
上有特栖鳥,懷春向我鳴。
袴袵欲從之,路險不得征。
徘徊不能去,佇立望爾形。
風忽揚塵起,白日忽已冥。
廻身入空房,託夢通精誠。
人欲天不違,何懼不合并。

 

曹丕

生涯

  曹操と卞氏との長子として生まれ、8歳の時に文章を書き始め、騎射や剣術を得意とした。初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父・曹操の軍中に従軍していた。
 197年に曹操の正室の丁氏が養子として育てて嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が戦死すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。
 これによって、一介の側室でしかなかった生母卞氏は曹操の次の正室に迎えられ、以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われようになる(次兄の曹鑠も程なく病死)。やがて、曹丕は文武両道の素質を持った人物に成長することとなった。

 曹操の下で五官中郎将として丞相の副となり、曹操の不在を守るようになった。217年、父・曹操から太子に正式に指名される。一般にはこの時弟曹植と激しく後継争いをしたと言われるが、実際にそうだったかは怪しまれる。むしろ、兄弟の側近たちによる権力闘争であったという方が、正確であろう。

 220年に父・曹操が逝去すると、魏王に即位し丞相職の地位を受け継ぎ、さらに献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即いた。ここで後漢が滅亡し、三国時代に入ることとなる。曹丕は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ魏を安定勢力に導いた。特に陳羣の献言による九品官人法の制定は後の世に長く受け継がれた。

 一方、外政面では三度にわたり呉に出兵した。222年に始まった出兵は、夏侯尚らが諸葛瑾らを破り江陵を包囲攻撃し陥落寸前まで追い込んだが、疫病が流行したため退却せざるを得なかった。224年の出兵は、徐盛が長江沿岸に築いた偽の城壁に驚き戦わずして退却した。225年の出兵は、この年は寒さが厳しく川が凍り船を動かすことが出来なかったので撤退した。『演義』では蜀呉同盟に怒り、呉に対して224年に大水軍をもって攻めるが徐盛に大敗、赤壁同様の被害を出し、そこで張遼を失ったと記してあるが、これは創作である。

 226年に風邪を拗らせて肺炎に陥り、そのまま逝去した。死ぬ間際、司馬懿、曹真、陳羣、曹休に皇太子の曹叡を託した。

治績

 文帝の治世は、主として内政を重視するものであり、腐敗を極めた後漢末期を殷鑑としたことが顕著である。宦官を一定以上の官位に昇進できないようにしたのは、その端的な処置であろう。他にも、郭貴妃を皇后に取り立てる際は、皇帝をさしおいた太后への奏上を禁じ、外戚の政治関与を禁じる勅を発している。
 そのほか、私刑や仇討を禁じて社会秩序を維持し、大逆罪を除く密告を禁止して密告そのものを罪に問う勅を発布、刑罰の軽減や淫祠の取り締まりを命じるなど、後漢末の弊害や、その後の混乱によって引き起こされた社会問題を収拾しようと、苦心した跡が伺える。

 文帝は、曹植をはじめとする皇弟を僻地に遠ざけ、地力を削ぐため転封を繰り返したことで有名であるが、これも外戚と同様、皇族の政権掌握を防ぐことにあったと思われる。しかし、これによって必要以上に藩屏の力が衰え、司馬氏の台頭を防ぐことができなくなってしまった。西晋の武帝はこれに鑑みて皇族を優遇したが、今度は逆に諸王に軍事権まで与えるなど厚遇が過ぎ、八王の乱を引き起こすに至る。

 なお文帝は在位僅か7年で死去するが、それが設立したばかりの国の基盤を培うには不十分な期間だった為、結果として魏の寿命を縮めたという指摘もある

後世の評価

  漢から簒奪を行った事と、蜀漢正統論の影響からか、曹丕の評判は非常に悪い。甄氏に死を賜った事や、曹植を冷遇した事が有名であるが、それ以外にも、于禁を憤死させた際の顛末や、夏侯尚への制裁、功臣であり親戚でもある曹洪を、過去に借財を頼んで断られた恨みから、皇帝即位後に彼を他の罪を口実に殺そうとするなど、陰険な逸話が数多く残っている。

 彼が神経質で冷酷な性格であったことは否めないが、為政者としてみた場合、非凡で有能な明君であったといえる。 文帝の治世において特筆すべき大乱はなく、大きな粛清もない点、総じて社会体制は安定していたと評価できよう。
  三国志の編者・陳寿は「好悪の激しすぎる点を改め、広大無辺の度量、仁慈の心を持ち合わせていたのならば、古代の聖王と比較しても何ら劣らない明君となっていただろう」と評しているが、肯われることである。

詩風と著作

 曹操、曹植と同じように文人としても知られ、その多くの優れた詩は『文選』に収められている。「燕歌行」は現存する最古の七言詩として有名で、漢文のテキストなどにも取り上げられている。その作風は概して繊細優美で、剛直な気風が多い曹植の作品としばしば比較される。
 冷徹な印象の強い曹丕だが、一方で「胸襟を開いた相手には身分を越えた親愛を示し、時として身分にふさわしくなく、軽佻に見えることもあった」との評があり、たおやかな詩風はその現れとする見方もある。

 また中国史上初の文学論評である『典論』を編纂、その中に収められた「論文」は、現存する最古の文芸評論で、「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と述べ文学の効用を宣揚したことで知られる。
 この考えは、詩人として名高い弟の陳思王曹植が「詩や文で名を残しても何にも成らない。男子たるものは武勲を挙げて善政を支えてこそ本懐である」と語っているのとは、非常に対照的である。

 一方で、大変な現実主義・合理主義であったらしく、自らの葬儀に関しては「玉衣や副葬品は不用。墓を飾り、床を敷くのもならぬ。人は死ねば等しく骨となり、もはや骨に痛覚はないのだから」と言い残しており、父・曹操と共通する反儒教的考えを押し出している。
 もっとも、この考えは老荘思想にも通じるものがあり、文帝の施行した制度などと合わせ鑑みて、このころ既に、六朝で流行する“清談”の基本となる思想が形成されていたのではないか、と指摘する説もある。

『列異伝』に関する考察

 曹丕は志怪小説『列異伝』の著者ともいわれているが、確証がないため断定しがたい。現今の『列異伝』は、『藝文類従』『水経注』をはじめ各文献に引用された話を集めた輯本であり、曹丕死後の景初、正始、甘露年間の話も含まれている。

 『隋書』経籍志では「列異伝 全三巻、魏文帝撰」とあるが、『旧唐書』では「全三巻、張華撰」となっており、『新唐書』芸文志では張華撰とするが三巻ではなく一巻と、記録の異同が多い。清の姚振宗『隋書経籍志考証』では「張華が魏文帝に続いて作り、後代の人々が混同したのだろう」としているが、査証のある説ではない。

 そもそも、「列異伝」という題名自体が誰でも付け得るものであり、『太平御覧』所収の諸文献を比較すると、撰者を記していないケースが多い。
 撰者名がある場合は、魏文帝に次いで張華が多く、他、呉の胡冲や西晋の皇甫謐の著作にも「列異伝」が見える。また、こうした類書に収める場合、多くは著者の正確性をあまり問題にされない、ということを一考いただきたい。

 志怪小説の撰者として魏文帝曹丕の名が挙げられたことは、型破りな価値観の持ち主であったことを窺わせる。しかし、古い志怪小説の場合、そこに「怪奇とは天による戒め、前兆である」という思想が前提となっていることも忘れてはならない。有名な『捜神記』にしても、文章の構成としては「ある事件」→「従来の解釈」→「干宝の解釈」のスタイルが全編に見られる。

 

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