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元嘉体

 元嘉は南朝宋の文帝年号(紀元前453から424)である。この時期優れた詩人には、謝霊運、鮑照、顔延之があげられる。謝霊運と顔延之はこの時期の双璧で「顔謝」と呼ばれている。彼らの詩の特徴は、形の美である。謝霊運は旅好きで、多くの山水詩を書いて、山水詩派の創始者でもある。
 顔延之は五言詩のみ書いていたが、詩文には難しい詩語や、典古が多く使われている。それは風格として良いものではないが、この時期の詩人に共通しているところであった。鮑照は七言楽府を得意とし、作品は情緒的で奔放であり不平不満を表現しており、当時としては非常に優れている。

 

謝霊運

 謝霊運(385年(太元10年) - 433年(元嘉10年))は中国の東晋・南朝宋代を生きた詩人・官僚。陳郡陽夏(河南省太康)の人。爵位から謝康楽とも言われる。六朝期を代表する詩人で山水を詠じた詩が名高く、山水詩の祖とされる。

 河南省で、江南大族の出身であり、名将だった謝玄が祖父である。406年、20歳の時に皇帝に仕えたものの、謀反の疑いをかけられ、広州に流刑とされた後、その地でも疑いをかけられ、処刑の上、死体を市中にさらし者にされた。

「文選」において彼の作品は40首と最も多く採用されたが、代表作の「登池上樓」「石壁精舎還舎湖中作」「於南山往北山経湖中瞻眺」などもその一つである。

 謝霊運(384〜433)河南省陳郡陽嘉の人。晋の将軍謝玄の孫。文才があり顔延年と名を並べた。従叔父謝混の封、康楽公二千石を継いだので、謝康楽と称された。詩文は陶淵明と並んで「陶謝」と言い、顔延之と併せ並び称して「顔謝」と称される。

  石壁精舎還湖中作。石壁精舎より湖中に還りて作る。
昏旦変気候,   昏旦に気候変じ
山水含清暉。   山水 清暉を
清暉能娯人,   清暉 能く人を娯しませ
游子憺忘帰。   游子 憺として帰るを忘れる
出谷日尚蚤,   谷を出でて日尚はやく
入舟陽已微。   舟に入りて陽已に微なり
林嶽斂瞑色,   林嶽 瞑色を斂め
雲霞収夕霏。   雲霞 夕霏を収む
菱蓮迭映蔚,   菱蓮 たびに映蔚し
蒲稗相因依。   蒲稗 相い因 依す
被払趨南径,   被払して南径に趨き
愉悦偃東扉。   愉悦して東扉に偃す
慮澹物自軽,   慮澹にして物自ら軽く
意適理無違。   意適いて理違う無し
寄言摂生客,   言を寄す摂生の客
試用此道推。   試みに此処の道を用って推せ

 山水の美を描き尽くした詩。謝霊運の詩の中で最も秀れたものの一つとされている詩。朝夕に変わる湖山の微妙な景色に心安んじて還るを忘れ、この中に陶淵明の所謂『真』の理があることを言外に暗示し、「慮澹にして物自ら軽く、意適いて理違う無し」道をもって養生の要諦とする、と言う結句に至る前提として、渾然とした纏まりをみせる。
 感覚の鋭い観察、巧妙な表現により、夕景の変化を刻刻と感じさせる。天才の霊妙な手法である 然し謝霊運の官吏としての生涯が不遇なのも、彼の放縦な性格と自ら引き起こした人間関係のトラブルに関係がある。
 名門の坊ちゃん、我が儘で自負心が強く、才能を恃み勝手気ままな振る舞いは、世間の顰蹙を買う結果にもなった。
 謝霊運は好んで『曲柄笠』(柄の曲がつた車蓋。車に立てる傘⇒貴人の儀仗として用いた)を用いた。孔隠士(孔淳之)が彼に言った。
 「きみは心は高遠な境地を慕いながら、どうして、貴人を真似て、柄のついた笠と言う外形にとらわれるのだ」謝霊運は答えた。
 「まあ《影を畏れる者はまだ無心になっていない》と言うことではなかろうか」 【世説新語。言語】
 謝霊運は父の喪中に詩を作った。為に、罪に問われ一生出世できなかった。それは、父母の死を文学作品として表現する。それだけの、ゆとりを持つことが許されなかった。
 親の死は人生にとって最大の悲しみとされ、中国の詩人で、妻や子供の死を悼む詩はみられるが、親の死を悼む詩はほとんど無い。稀にはあるが、例外的である。孝という徳には親の生前中に孝養をつくす。祖先の霊をまつるという義務を持つ。
 後、謝霊運は文帝の秘書監となり『晋書』の編纂に従事したが、再び会稽に帰り山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒擾罪に問われた。
 幸い文帝の特赦により臨川内史に任ぜられるが、彼は依然として傲慢な態度を改めなかった。遂に広州へ流罪となる。護送の途中、逃亡の計画が暴露され広州で死罪に処せられた。四十八歳であった。

  東陽谿中贈答
可憐誰家婦,縁流洗素足。
明月在雲間,迢迢不可得。

 

鮑照

鮑照ほうしょう、414年?(義熙10年) 466年(泰始2年))は中国・六朝時代の宋朝の詩人。上党(山東省)もしくは東海郡(現在の江蘇省漣水県または山東省?城県)の出身。字は明遠。最終の職名から鮑参軍と呼ばれている。妹の鮑令暉も詩人として知られる。

略歴
 いわゆる寒門の貧しい家柄に生まれる。元嘉 (南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉子?のもとで前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された。

詩風
 楽府体の詩を得意とする。典故に凝り固まらず新たな語彙を用い、不遇であった自らの境遇からわき出る情念を強く打ち出している。これが唐詩への先駆けとされている。

  擬行路難十八首の一
瀉水置平地,    水を瀉いで平地に置けば
各自東西南北流。  各自東西南北に流る
人生亦有命,    人生にも亦 命有り
安能行歎復坐愁。  安んぞ能く行きては歎じ復坐しては愁へん

酌酒以自寛,    酒を酌んで以て自ら寛うし
挙杯断絶歌路難。  杯を挙げて断絶して路難を歌う
心非木石豈無感,  心 木石に非ず 豈に感無からんや
呑声躑躅不敢言。  声を呑んで躑躅して敢へて言はず

  代出自薊北門行
寵起邊亭,
烽火入咸陽。
徴騎屯廣武,
分兵救朔方。
嚴秋筋竿勁,
虜陣精且彊。
天子按劍怒,
使者遙相望。
鴈行縁石徑,
魚貫度飛梁。
簫鼓流漢思,
旌甲被胡霜。
疾風衝塞起,
沙礫自飄揚。
馬毛縮如蝟,
角弓不可張。
時危見臣節,
世亂識忠良。
投躯報明主,
身死爲國殤。

 

顔延之

  五君詠五首之一(阮歩兵。名は籍。歩兵校尉)
阮公雖淪迹,  阮公 迹を淪むと雖ども
識密鑒亦洞。  識密に鑒も亦た洞し
沈酔似埋照,  沈酔は照を埋むるに似たり
寓辞類託諷。  寓辞は諷を託するに類す
長嘯若懐人,  長嘯は人を若懐うが若く
越禮自驚衆。  越禮は自ら衆を驚かす
物故不可論,  物故 論ず可からず
途窮能無慟。  途窮まりて能く慟すること無からんや

 顔延之(384〜 456)字は延年。山東省臨し県の人。性質は淡白、小事にこだわらず、文章は当時第一であったと言う。晉の滅亡後宋に仕えた。
 酒を好み放縦に振る舞い、または野外で独酌するようなこともあった。劉ェが権勢の位にあるのを不平に思って衝突することがあった。為に永嘉の太守に出されたので、恨み憤って『五君詠』を作り竹林七賢人のことを述べてその心懐を表わしたと言う。
 陶淵明と好く、その死を悼み、「陶徴士誄」を作りその徳を讃えた。詩では「秋胡詩」「北使洛」などが有名。謝霊運と並んで「謝顔」と称される。「五君詠」はその最も勝れた詩である、とされる。 

 

阮籍

 阮籍は身の行動を世間から隠して逃れていたが 物事を見分けることは緻密で観察も深かった 酒に深く酔って、その才智の輝きを埋み蔽っていたようであるが 裏に深い意味を託した言辞は遠まわしに人を諌めるに似ていた。
 長く嘯く声は、曽て蘇門山に尋ねて、相嘯きながら別れた隠者を懐っているかのようだ 俗世の禮を越えた彼の日常の行いは俗衆を驚かす結果となったが 彼の明識をもってすれば、世の事物は論ずる事も出来ない状態であった。
 彼がよく車を馳って、小道によらず車道の行き止りまで行き、世の中のことも正道には窮するところがある事を知り、慟哭して引き返したと言う。世の有様に道も窮して、心を動かし、声を上げて泣くより他には、どうにも仕方が無かったであろう。彼が隠遁して世を逃れて暮らしたのも当然である。

 

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