漢詩詞諸派少陵体 中山逍雀漢詩詞填詞詩余楹聯創作講座 TopPageこちらからもお探し下さい
少陵体
杜甫の詩体は詩論家たちによって、少梁体呼ばれる。少陵とは、漢の宣帝許后の陵墓で陜西省西安市東南に有り、杜甫一家は嘗てこの少陵の西側に住んでいたことがあるので、彼は「杜陵の布衣」または「少陵の野老」と称した。後世の人々も杜甫のことを、「杜少陵」と呼ぶのである。現在西安市長安県に杜甫記念館が有るが、其の位置は少し南にずれている。
杜甫は中国の詩歌史に於いて、李白と並び偉大な現実主義詩人であり、詩壇に於いて最も高い評価を受ける詩人である。彼は唐の玄宗・粛宗・代宗という、三代に亘って唐王朝の栄枯盛衰を自らの眼で目撃した。彼は戦乱の中の苦痛を体験し、詩作を通じて社会の罪悪への批判や義憤、民衆の苦痛への同情を表現し、真剣な現実主義である。
五言古詩・七言古詩・五言律詩・七言律詩などで作詩し、何れも哀調で、歴史を正しく表現しているので、後世の人々に「史詩」と呼ばれている。芸術的にも大きな成果を上げ、詩風は限りない愁いに沈み、人生の挫折を詠い、内容が奥深く幅広いものである。又彼の律詩は、格律が完成され対句も整っているので、後世「詩聖」と呼ばれ尊敬されている。
略歴
- 712年(先天元年) :
河南鞏県(河南省鞏義市)で生まれる。父は杜閑、母は崔氏。祖籍は襄州襄陽(湖北省襄樊市)。
- 718年(開元6年) : 初めて詩文を作成する。
- 720年(開元8年) : 初めて大字を習う。
- 725年(開元13年) :
故郷に隣接する洛陽で文人の仲間入りを果たす。
- 730年(開元18年) : 斉に滞在する。
- 731年 - 734年(開元19年 - 22年) : 呉、越に滞在する。
- 735年(開元23年) :
呉、越から洛陽に帰って来て、科挙の進士を受験したが不合格。
- 736年 - 740年(開元24年 - 28年) : 斉、趙に滞在する。
- 737年(開元29年) :
洛陽に帰り、陸渾荘を造りそこに滞在する。
- 744年(天宝3載) : 洛陽で李白と会う。
- 745年(天宝4載) :
斉に滞在する。そこで再び李白と会い、友好を結ぶがこれが最後の再会になった。
- 747年(天宝6載) :
長安で一芸に通じる者のための試験が行われたが、不合格。
- 750年(天宝8載) : 長男の杜宗文が生まれる。
- 751年(天宝10載) : 玄宗に『三大礼賦』を奉献する。
- 753年(天宝12載) : 次男の杜宗武が生まれる。
- 754年(天宝13載) :
高官に詩を献じてしきりに士官しようとする。
- 755年(天宝14載) :
河西の尉に任じられるが断り、右衛率府の胄曹参軍になる。
- 756年(至徳元載) :
安禄山により長安が壊滅する。杜甫は脱出し霊武(寧夏回族自治区霊武市)で粛宗が即位すると聞いたので行在所に向かう途中、賊に捕まり幽閉される。
- 757年(至徳2載) :
何とか脱出して、粛宗から左拾遺の位を授かる。
- 758年(乾元元年) : 房?(ぼうかん)を弁護したことにより粛宗に嫌われ、華州(陝西省華県)に左遷される。
- 759年(乾元2年) :
官を捨てて、秦州(甘粛省天水市)に赴く。同谷(甘粛省成県)に移るがこのころ相当の貧乏であったため、ドングリや山芋など食いつないで飢えを凌いでいた。蜀道の険を越えて成都に赴く。
- 760年(上元元年) : 成都で、草堂(杜甫草堂)を建てる。
- 765年(永泰元年) : 成都を去り長江を下る。
- 770年(大暦元年) :
襄陽を通り洛陽へ行き長安に帰ろうとしたが、相江の舟の中で客死する(死因としては、頂き物の牛肉を食べ過ぎて亡くなった話が有名だが、この話が捏造であるという意見も多く、はっきりとした死因は今なお分からない)。
作品展示は省略します。
李白陶淵明漢俳漢歌自由詩散曲元曲楹聯漢詩笠翁対韻羊角対填詞詩余曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律はこの講座にあります