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楊誠齋体

 誠齋とは楊萬里の齋名であり號名でもある。彼の詩は最初江西詩派の影響を受けたが、その後陳師道の五言律詩を学び、王安石とと唐詩の絶句を学んだ。やがて他人の模倣を止めて、自らの詩体を作り出した。その特色は分かり易い口語で作詩することである。言葉はユーモラスで、生き生きとしている。彼の詩を読むと、清新明快な感じがする。彼の詩について粗末で軽々しいとの批判もあるが、其れは封建時代の文人の偏見である。

 楊万里(1127年 -1206年)は南宋時代の中国の学者・詩人。字は廷秀。吉州吉水県(江西省吉水県)の出身。1154年に進士となり、張浚が宰相となった時に臨安府教授に任命され、ついで奉新県の知となり治績をあげた。虞允文・陳俊卿が宰相となった時に国士博士に抜擢され、太常博士・吏部右侍郎・将作少監をへて、○州・常州の知となり、1174年から東宮講官が欠員となると孝宗が侍講に抜擢した。そこで『東宮勧読禄』を上奏して帝王治国の要諦を説き、宰相・王淮に『淳煕薦士録』という書で提言して朱熹・袁枢など60人を登用させた。1187年に高宗が崩じ、孝宗は三年の喪に服すために徳寿宮に入り、太子に詔して庶務を議事堂に処理させようとしたところ、楊万里はこの措置に反対し上疏して諫めたために孝宗の不興を買い、○州の知へと左遷された。

 光宗即位とともに秘書監となったが、江東転運副使となったときに朝廷が江南に鉄銭を普及させようとしたためにこれに反対して罷免される。寧宗即位の時にふたたび出仕して、宝文閣待制に進んだところで隠退する。韓○冑が辺境で反乱を起こしたことを聞き、憂いのあまり絶食して没する。光禄大夫を贈られ、文節と諡された。

思想・詩
 楊万里は張浚によって「正心誠意」の学を授けられ、その言葉に深く感じ書斎を誠齋と名づけ、誠齋先生と呼ばれた。その学風は史伝を多く引証し、六経に精しかった。つとに異民族に侵略された北方の回復を望み、君道・国務・治原など30カ条の文を作り「千慮策」として朝廷に献じたこともある。

 詩人としても名声が高く、南宋の詩人としては陸游についで伝わる作が多い。陸游が晩年、韓○冑に妥協したのに対し楊万里は節を曲げず、そのため「詩品の洗練されていることでは陸游がまさるが、人品を問うならば陸游は楊万里に遠くおよばない」と羅大経が論じている。その詩法は江西詩派の流れをくみ黄庭堅風の詩を書いていたが、のちに自らその時期の詩を焼き捨てたという。唐詩を愛好し、観察発想が奇抜であり「才思健抜」と称せられた。宋詩のうちもっとも俗語を多用するという。その詩文はすべて、楊万里の長男が編纂した『誠齋集』133巻に収められている。

  秋思
平生畏長夏,一念願清秋。
如何遇秋至,不喜却成愁。
書冊秋可續,詩句秋可捜。
永夜宜痛飲,曠野宜遠遊。
江南萬山川,一夕入寸眸。
請辨雙行纏,何處無一丘。

  夏夜追涼
夜熱依然午熱同,開門小立月明中。
竹深樹蜜虫鳴処,時有微涼不是風。

  初入淮河
船離洪澤岸頭沙,
人到淮河意不佳。
何必桑乾方是遠,
中流以北即天涯。

 

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