漢詩詞諸派元遺山体 中山逍雀漢詩詞填詞詩余楹聯創作講座 TopPageこちらからもお探し下さい

元遺山

 金代は120年の歴史がある。著名な詩人も輩出した。然し一つの詩体まで評価されるのは元好問一人だけである。元好問の字は遺山である。彼は齋・梁体の詩の形式重視、内容無視の作風に反対して、純粋で自然な作風を主張した。彼は七言古詩と、七言律詩を得意とした。彼の七言古詩は雄渾奔放で、李白に似ており、彼の七言律詩は沈鬱重厚で杜甫に似ている。七言絶句も清麗高遠で、近代の大詩人の名に値する。元代は建国して100年ほど、多くの詩人を輩出したが、詩論家に評価される体派を形成した詩人は、楊維驤齔lだけである。

 元好問(1190年−1257年、新暦11月4日)は、金末期の詩人。太原(現在の山西省)出身。字は裕之、号を遺山という。父は元徳明、兄は元好古。その生涯は、南北朝時代の北魏の孝文帝の末裔であると言われる。また、唐時代の詩人・元結の子孫に当たると言われている。幼くして叔父の元格の養子となり、養父の転勤で山東・河北・山西などの中国各地に住んだといわれる。

 元好問は7歳の時に初めて詩作を書いたが、この時に作った詩作を高く評価され、神童とまで称された。その後も詩作を続けて、その名声は金から南宋にまで広まったという。1219年、31歳で金の科挙に合格して尚書省にまで抜擢されたが、金の首都となっていた?京(開封)がモンゴル帝国軍によって陥落されたとき、捕虜となってしまった。以前に1214年の春3月に兄の元好古が金の将校としてモンゴル軍と大同で戦って、29歳の若さで戦死を遂げている。しかし詩人の名声が高かったことはモンゴルにも知られていたため、また彼を慕っていた同年の耶律楚材の支えもあって、助命されたのである。

 1234年、金が完全にモンゴルによって滅ぼされると、南宋の知識人から仕官を勧められたが拒絶して二度と官職には就かなかった。その後は著作に専念し、史料を求めて各地を遍歴するなど滅亡した祖国・金の歴史編纂事業に全力を尽くした。だが、敵国である金の歴史編纂に対してはモンゴルや南宋などからの妨害も多かったという。1252年、彼が63歳の時に、北京で世祖クビライと謁見して、「儒教大宗師」の名誉職を授かったという。結局は彼の歴史編纂は未完のままで、1257年秋9月4日(旧暦)に彼は河北省の真定の鹿泉にて68歳で死去してしまった。

 金の詩を撰集した『中州集』は、元好問の傑作として有名である。詩集としての性格のほか、詩人の伝記もあわせて収録しているため金国史としての役割をも持っている。

  山居雑詩
樹合秋声満,村荒暮景閑。
虹収仍白雨,雲動忽青山。

 初挈家還讀書山雜詩
眼中華屋記生存,
舊時無人可共論。
老樹婆娑三百尺,
衫還見讀書孫。

  岐陽
百二關河草不,
十年戎馬暗秦京。
岐陽西望無來信,
隴水東流聞哭聲。
野蔓有情繞戰骨,
殘陽何意照空城。
從誰細向蒼蒼問,
爭遣蚩尤作五兵。

  論詩三十首記録三首
漢謡魏什久紛紜,正体無人與細論。
誰是詩中疏挙手,暫教渭各清渾。

曹劉坐嘯虎生風,四海無人角両雄。
可惜并州劉越石,不教横槊建安中。

一語天然萬古新,豪華落盡見真淳。
南窗白日羲皇上,未害淵明是晋人。

 

元遺山元曲散曲楹聯自由漢詩笠翁対韻羊角対漢歌漢俳填詞詩余曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律はこの講座にあります