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句の配置topPage

 句の配置として一般に起承転合が謂われているが、句の配置についての考え方は、起承転合ばかりとは限らない。この項は起承転合とは別の観点から説く。

 先ず詩について述べると、絶句は二章、律詩は四章で構成され、古詩の場合は各々の章数に依って構成される。そして各章は出句と落句で成り立つ。
 詩は稀に奇数句の作品もあるが、概ね偶数句で構成される。偶数句の場合は二句一章一意で構成され、奇数句の場合は、一句一章一意、或いは三句一章一意である。

 出句と落句の間には密接な繋がりがあるが、章と章の間には少しの隔たりがある。(この頃の作品には、敢えて章と章との間に「;」符号を入れて、章と章とを繋げる事を示唆した作品もある)

 更に幾つかの章が組み合わさって、一つのブロックを構成する。これを換韻格の場合は「解」と謂う。そして解毎に起承転合を割り当てたりもする。

 何故に章と章との間に少しの隔たりを設け、更に章のブロックとしての解を設けるのか?句数の少ない絶句や律詩ではさほどの実感を伴わないが、句数の多い古詩においては、その設定が必要なのである。

 譬えを他に移して説明しよう。
 東京駅の地下ホームから地上階に出るには、途轍もない長さのエスカレーターがある。あのエスカレーターに乗ったとき、乗り慣れていない限り、その長さと高低差に圧倒され、あれこれと心を巡らす心の余裕が無くなる。

 駅の施設は乗って楽しみ、心を遊ばせる爲の施設では無いのだから、実用一辺倒に造られ当然であるが、楽しみ心を遊ばせる施設としては不適切である。

 山寺の参拝に赴いたとしよう。殆どの石段はそうではないが、稀に、一本調子に頂上まで登る石段がある。この石段に一歩踏み入れると、石段に心がとらわれ、石段と周囲と自分との関係について、心を巡らす余裕が無くなる。石段の自己主張が強すぎて、心を遊ばせて呉れないのである。

 だが、多くの寺社の階段は、段の高さや歩幅や勾配に気配りをして、更に、少し登ると、有るところは10段目に、有るところは30段目に、周囲の状況と参拝者の体力と心持ちを汲み取って、或いは廣く、或いは狭く、平坦な場所、即ち踊り場が設けられている。参拝者の心を遊ばせてくれるのである。

 人は石段途中の踊り場に立ったとき、まずは手前の踊り場からの高さを実感し、その10段或いは30段の汗を拭うのである。それから、自分の高さを実感し、周囲の景観に目を馳せ、一歩神域に入り込むのである。

 そして遂には頂上にたどり着き、身も心もすっかりお膳立ての境地に浸かり込むのである。

 さて話を詩に戻そう。短編でもそれなりの踊り場が必要で、まして長編の作品には、踊り場は必要な要件である。踊り場を設けなかった場合は、頂点に辿り着いた時点でも、作品と読者は融合せずに、別々の存在なのである。踊り場を設けた場合は、読者と作者が融合しているのである。言い換えれば作者が読者を取り込んでしまっているのである。

 絶句や律詩は短詩の範疇だから、それ程に句の配置に配慮する必要がないが、八句以上の作品は古詩の範疇に入り、一韵到底格と換韻格がある。換韻格の場合は解の設定があるので、この点に留意すれば大過は無いが、一韵到底格の場合は、当初から句の配置に留意し、設計して取りかからないと、踊り場のない石段のようになってしまうので、殊に注意を要します。

 詩と詞を比較すると、詩は途中に瘤のような小さな山はあるが、概ね独立峰への登山に似ている。詞の場合は縦走して高峰に辿り着くに似ている。

 

 

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