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俳句と漢俳 

第一項 総論

 漢俳と言う定型の名称は、中華人民共和國建國以後に誕生した名称で、歴史は極めて浅い。この定型が、他の定型と基本的に異なる点は、中国側が、2005年3月に、中國北京に於いて、漢俳学会を設立し、其の設立祝賀の席に、日本の俳壇を招いて、漢俳について次のように述べた事である。

 “漢俳は誕生の端緒も、日本俳句と縁があり、詩歌としても、多くの共通点が有るので、中日詩歌交流媒体の一つと成った!”漢俳は、この日を堺に大きくその性格を転換したのである。

 漢民族と詩歌の関係の、一端を述べれば、漢民族は現在でも過去でも、訴えようとする詩想に對して、其れを収めるに相応しい定型を選ぶのである。則ち詩想が先で定型が後の関係である。

 もし相応しい定型が見あたらなければ、自分で新たな詩型を作り、湧き上がる詩想を収めるのである。

 依って、定型の名称は得ていないが、漢字五七五の詩型は、古い時代から、多くの独自詩型の一つとして、存在していたのである。

 

第二項 中國漢詩詞と日本俳句との相違点

 中国人は詩想に相応しい詩型を選び、其の詩想を収容する。依って詩想が先で詩型は後の関係である。

 先ず漢詩詞は首尾一貫が原則で、綴られた語彙、即ち記載された情報を順次読めば、詩想が読み取れる構造である。提供された情報を順次読み進む行為そのものが、創作者と読者を一体化する事に繋がる。この原則は100句の作品でも、3句の作品でも同様である。

 日本詩歌には短歌と俳句と、川柳と都々逸、その他の詩歌がある。俳句には、その根を同じくする短歌が有る。依って俳句と短歌を対比して、俳句の特徴を探ることとする。
 俳句にも短歌にも、双方に叙法の決まり事がある。然し殆どの決まり事は原則で有って、絶対条件ではない。然し、使用文字数の違いは、大枠では絶対条件で、箇々には原則である。

 短歌の仮名三十一字は表意文字約十九字に相当し、概ね十六字令、或いは五言絶句に相当する。これに対し俳句の仮名十七字は表意文字約十字に相当し、曄歌に相当する。

 十六字令や五言絶句と短歌を比べれば、短歌の叙法は漢詩詞の其れと殆ど同じで、記載された情報を順次読めば、詩想が読み取れる構造である。

 詩想を訴えるには、少なくとも首尾一貫した情報が提供されなければ成らない。短歌に対して俳句の情報量は余りにも少ない。記載された情報を、そのまま読み取っても、詩想を読み取ることは極めて困難である。情報不足は敢えて為せる詩法であり、この情報不足を巧妙に活用する手段として、俳句独特の詩法がある。

 ご存じのように鼎の足は三本だけである。要所を弁えた場所に足があるので、安定して倒れもせず、古来より安定の模範として尊ばれている。俳句はこの鼎と同じで、少ない情報提示乍らも、微細から極大まで、あらゆる詩想に対応出来る巧妙な詩歌である。

 俳句の構成要点は、その句の配置にある。則ち、情報提示を極力少なくし、読者が思惟可能な限りに、句と句の隔たりを大きくして、その接点を設ける。

 読者は提供された情報を基点に、独自に思惟を繞らす。例えば三個の情報の提示が有れば、各々を基点に思惟を繞らせば、結果として首尾一貫の情報となる。この思惟を繞らす行為こそがが、作者と読者が一体となる事象であり、俳句の特質である。依ってこの詩法は微細な詩想から、広大無辺の詩想まで縦横に対応できる。

 然し微細な詩想から広大無辺の詩想と言っても、その深さは別の用件である。即ち深さに応じた情報量は必要である。

 漢詩詞は多くの情報を提示して、読者と作者が、詩想の一体化を図るが、俳句は極限まで情報提示を控えて、其れが却って読者の思惟を喚起させる。読者は思惟を繞らして、情報の首尾一貫を探り、思惟を作者と共有し詩想を感得する。この行為そのものが作者と読者の一体化で有る。

 中国人は定型に拘らない。現在通用の定型は概ね百餘で、此を分け隔て無く適宜使っているのである。其れに引き替え、日本には定型の数が極めて少ない。更に一人で幾つもの定型を扱う者は少なく、定型に固執する傾向がある。

 人は一面的な存在ではない。当然幾多の詩想を持っている。其れを限られた定型に収めるには、その為の工夫が必要である。

 俳句の仮名十七文字で表せる情報量は、漢字約十字に相当する。情報量としては極めて少ない。此だけ少ない情報量では、小さな詩想にしか対応できないが、詩想の要求は千差万別である。然し俳句はこの困難な状況を「鼎」と言う巧妙な詩法で解決している。

 漢俳は表意文字十七字で構成される。その収容情報量は概ね俳句の二倍に相当する。これだけ情報が提供されると、読者は思惟を繞らさなくとも、与えられた情報だけで、殆ど詩想を読み取れる。

 依って、漢俳には「作者と読者が思惟を共有して詩想を繞らして、詩想に到達する」という俳句の根幹詩法が欠如している。結論として、俳句と漢俳は、詩法を異にする定型詩歌である。

 ただこの不都合を巧みな詩法に依って好都合に転換できる創作者も、僅かにはいるが名手の域である。

 俳句は、深さにおいては情報量に依るが、微細から極大まで、あらゆる詩想に対応出来る。然し漢俳は、漢民族詩歌の本質である面と厚さを基本としているので、他の漢詩詞の例に倣って、その持ち分に応じた詩想にしか対応できない。

  漢俳を日本詩歌に置き換える場合は、幾許の詩法の違いはあるが、根本的な違いのない短歌に置き換えることが、詩法上妥当といえる。漢俳と短歌は可逆関係にある。これに対し漢俳と俳句は詩法上相互に変換できない。

 ただこの不都合を巧みな詩法に依って好都合に転換できる創作者も、僅かにはいるが名手の域である。

 俳句について、次のように結論した。
 俳句は極限まで情報提示を控えて、其れが却って読者の思惟を喚起させる。読者は思惟を繞らして、情報の首尾一貫を探り、思惟を作者と共有し詩想を感得する。この行為そのものが作者と読者の一体化で有り、俳句の本質であり醍醐味でもある。

 世上多くの佳作と賞される俳句作品がある。入りやすく一読すると解ったような気がする!日月年を経て読者の思惟能力が向上していれば、再読すると、又以前とは異なった詩想が感得出来る。順次読者の思惟能力に応じて新たな詩想を提供してくれる。この事象は情報が少ないが故に思惟が喚起され、読者の思惟能力の推移に応じて、前回とは異なった詩想に到達した!と言うことである。作品が読者の先を行っている!とも言える。

 読者が思惟を繞らせると言う行為は、作者によって仕組まれた意図なのである。何度臨んでも到達できない!と言うことは、作者の意図に填ったのである。掴めそうに見えて掴めない!これが俳句の本質であり醍醐味でもある。即ち俳句詩法の奥義であって、この様な作品を広大無辺の佳作と言うべきである。

 俳句は読者に思惟を喚起し、思索を繞らさせる事を、詩法の根幹とする。依って一読して大方の詩想が読み取れ、何度読み返しても、それ程には詩想の相違のない作品は、作品が読者の思惟能力に追いつかれたからで、情報とその配置が適切でない結果といえる。

 漢俳は情報量が多いので、一読して大方の詩想が読み取れる。何度読み返しても、それ程には詩想の相違がない。此は漢詩詞の本質であって、作品が稚拙というわけではない。俳句とは根本的に詩法を異にする所以である。掴めそうに見えて掴める!これは漢詩詞の本質であり漢俳の本質でもある。

 漢詩詞創作には先ず、広範にして緻密な観察と洞察が前提となる。作者はこれを凝縮して定型の枠に収めるのである。依って僅か10字の曄歌であっても、広範にして緻密な観察と洞察が前提である。俳句は稲妻の如き閃きを重視する。閃きは閃きであって、その深さには乏しい。

 

第三項 俳句を漢俳に変換

 中國漢俳学会設立により、従来からの五七五に漢俳と言う定型名称が冠せられ、中國でも日本でも、漢俳が俄に脚光を浴び、この新顔の定型に興味を示す者も現れた。

 漢俳が日本俳句と互換性ある定型で有るかのような風評が独り歩きし、漢詩詞とは全く詩法を異にする俳句愛好者が、漢字詩歌に手を染める事となった。

 俳句を漢俳に変換するには二通り有る。その一つは、漢詩詞の構成要件に準じて、首尾一貫に綴ることである。これでは、俳句と詩法が異なるので、漢字五七五に書き換えても、俳句との相互関係とは成らない。此は名称を漢俳と言う漢字の五七五であっても、俳句の互換作品とは成らないのである。

 次に、俳句の構成要件に準じて、情報を減らした鼎の構成とする詩法を用いることである。此は極めて難しい創作であって、名手の域で無ければ対応できない。俳句漢俳互換論は耳にするが、日本人の創作で、其れに値する作品を未だ見たことはない。

 俳句漢俳互換は底本俳句の情報量と漢俳の情報量と等しいと言う条件がある。情報量が異なれば、例え其れが思惟の範囲内にあっても、底本作品とは異なる作品となる。何故ならば、俳句には情報不足を補う思惟行為そのものが、俳句の成立要件の一つだからである。

 依って、底本俳句と同等の情報量で漢俳を作るという行為は、その用いる文字の情報収容能力に差がある以上、中々に困難な作業と言える。

 ここで重要なことは、例え其れが思惟の範囲内にあっても、情報量が異なれば、底本とは異なる作品となる。

 依って、漢詩詞詩法で中國の漢俳を扱えば、俳句詩法との間で齟齬が生じ、俳句詩法で日本の漢俳を扱えば、漢詩詞詩法との間で齟齬が生じる事となる。

 

第四項 中國漢詩詞の現状

 中華人民共和国成立以後、人心の安寧を諮るための一つの手段として、文字の簡略化と詩歌の普及が図られた。

 既に漢民族には長い歴史に培われた定型詩歌が有るが、革命による新国家建設という政治状況と、従来の定型が、必ずしも簡易とは言えない現状から、自由詩の普及が図られた。

 然し、その後も自由詩は國の内外に廣く普及して大衆化される迄には到らなかった。長い革命の時代を経て、国内も平穏と成り、改革開放の時代が到来した。

 改革開放の時代と成って、長年にわたり、沈静化していた古典詩歌が、息を吹き返したのである。各地に詩詞壇か結成され、日本人との詩歌交流も、数は増え成長も著しく早かった。

 詩歌関連交流は、漢詩詞、俳句、短歌、吟詠、詩舞、書道などの、団体や個人的な交流が盛んに行われた。

 詩歌について漢民族は定型に固執することはしない。自分の思いを収めるに相応しい定型を選ぶのである。もし相応しい定型が見あたらなければ、自分で新たな詩型を作り、湧き上がる思を収めるのである。

 偶々、俳壇交流の席上、中国側が日本側俳壇に敬意を払い、五七五の漢字による即興詩を披露した。この事は、日中双方に興味深く受け取られ、その場の雰囲気から、漢俳と言う名称が与えられた。

 その後、漢俳は、中国国内で詩歌普及の方途として、歓迎され、徐々に広まっていった。

 古典定型は、長年の経過によって習熟の度を高め、著者が知る限りでも、百六十余の詩法が云われている。古典漢詩詞は詩法の難しさが却って障害となって、誰でも簡単に創作できる状況ではなかった。

 かと云って、簡易に創作出来るであろうと思われた自由詩も、予想に反して思ったほどの拡大を見せなかった。

 時は移り、改革開放政策が叫ばれた丁度その時、詩法に余り囚われない、自由詩と古典詩の折衷した定型としての、漢俳の誕生である。

 誕生して間もないから、詩法も整っていない。此が却って幸いして、詩歌の知識が少ない者でも、自由に詩想を綴る事が出来、容易に創作が出来るとの評価を受け、此が詩歌大衆化の要求に合致した。

 

第五項 漢詩詞の側から看た漢俳

 漢俳誕生と詩歌大衆化の情報は、既に二十年前に、日本の漢詩壇にも、伝わった。

 漢俳が、日本の漢詩壇に紹介された理由は、「詩法知識の乏しい者でも簡単に対応創作出来る」から、である。

 漢詩壇では、古典定型を創作出来る能力があるのだから、敢えて、簡単な定型を取り入れる必要はない。

 又、一時期漢俳が話題となって、定例討論会の議題に上ったが、編者の知る複数の漢詩壇でも、漢俳創作の必要性は無い!との結論に到った。

 日本漢詩壇では、漢俳に関する情報は夙に広範に伝わり、恐らく半数の漢詩人は、既に二〇年前に漢俳の創作を試みている。

 編者は、日本詩歌壇の情報には疎いが、例えば会員一千万人と自称する俳壇に於いて、その半分の五百万人に漢俳の情報が伝達されたであろうか?創作を試みたであろうか?研究討論会を開催したであろうか?

 漢俳誕生当時、中国詩詞壇では、知識未熟な者でも対応出来る定型詩歌、と云はれ、この簡便性が幸いして、詩歌の大衆化が図れると云われた。

 編者も既に二〇年前漢俳の創作を試み、多数の添削に応じたが、そこで得た結論は以下の如くである。

 漢俳を純粋な漢詩詞と捉えて、未熟な詩法の儘で対応するのならば、極めて簡単に創作する事が出来る。

 然し、その結果として、長年に亘る衆目に堪えられる作品が出来る確率は低い。

 詩法を駆使して対応しても、従来の定型から余りかけ離れているので、詩法の安定的な対応が、極めて難しい。

 安定的な詩法の対応を為す技量を得るためには、少なくとも百余の詩法を熟知した後で無ければ、対応が不十分と成るである。

 依って衆目に堪えられる作品を創る事は、とても難しく、七言律詩創作以上の技量を必要とする。

 

第六項 漢俳創作の傾向

 漢詩詞の構成は首尾一貫を原則とする。此は百句の作品でも、三句の作品でも、同様である。

 漢詩定型の殆どは、偶数句、四句以上で構成されている。中國漢俳は三句構成であるから、起承轉合の何れかが欠落する。更に、五字句と七字句が混在する。この事は、従来の定型とは基本的に異なり、従来詩法の対応に頗る支障を来す。

 依ってこの事を解決するには、新たに高度な詩法を創出しなければならない。然し、殆どの創作者は、安易な方向を選び、自由な発想、新たな詩法となどと自称して、安直に逃れる傾向がある。

 前述の如く、漢俳と俳句を互換詩歌とすることは、情報量の違いが、障害と成って、事実上創作は極めて難しい。似通った作品としてなら可能だが、同様な作品として並立させることは、名手の筆に依らなければ極めて困難である。

 漢詩壇は漢詩詞の創作を専らとしていて、俳句関連の詩法は学んでいない。依って、漢詩詞壇としては、俳句と並列関係にある漢俳創作に対応する事は、詩法知識上対応不可能である。

 又、総論で示すとおり、漢俳提案の相手方は、日本の俳壇であって、日本の漢詩詞壇ではないのである。

 更に、第五項での結論の示すとおり、殊更に漢俳の創作をする必要は全くない。漢俳は、数百有る定型の一つに過ぎず、敢えて取り上げるには値しない。

たとえ話

 漢詩詞壇が漢詩詞を創作するのは、中国服を着た京劇人形を作っている様なもの。

 或いは、四角い穴に四角い棒を通すようなもの。

 日本漢俳を創る事は、中国服を着た日本人形を作るようなもの。

 或いは、四角い穴に三角の棒を通すようなもの、或いは三角の穴に四角い棒を通すようなもの。

 

第七項 漢俳入門以前の基礎知識

 本講では、漢俳を漢詩詞の一類として扱い、漢詩詞の詩法で創作する方法を述べる。依って名は漢俳と称すが、俳句との並列関係に乏しい作品で有ることをお断りする。

 中國漢俳は中国側で云うとおり、初学者でも、初歩的な対応は十分に出来る定型である。

 漢語詩歌の知識として

1−平仄に付いて

2−韵に付いて

3−語彙の作り方

4−句の作り方

5−句意配置の要領

6−首尾一貫

 以上六項目は、漢語詩を綴る上で最低限の必要知識である。以下その大略と練習法を示そう。練習にはその所用時間を傍記したので、参考にされたい。

 なお、此から行う練習は極めて易しいから、他人に教えを請う必要は全くない。

 幾らのんびりしても、一ヶ月で基礎練習は完了するから、その後は、俳句の知識を持った者に教えを請う必要が有る。漢詩詞創作者に教えを請うても、俳句と互換の漢俳には、近づかないことを前もって述べておく。

注;平仄音韵については、中國が多民族多言語国家であるので、現代の日本では、現状に合った簡易なテキストは入手困難です。依って、現状にそぐわぬ点もありますが、古典のテキストは日本国内でも買い入れられますので、以後の解説は、古典テキストに順じます。

  本屋の番頭ではないが、練習用のテキストが必要なので直ぐに用意して貰いたい。

呂山 太刀掛重男著

詩語完備 だれにもできる漢詩の作り方

発行所 呂山詩書刊行会

737- 呉市長ノ木町8-36  電話 0822-24-1088

振替 広島 5-6473

注;東京神田 松雲堂書店でも店頭販売している。

 

第八項 平仄と韵について

 漢語を多少なりとも学んだ経験がある者なら、ご存じと思うが、漢語では概ね四っのアクセント、即ち四聲を縦横に使って、多数の漢字を読み分けている。

 先ず音律の面から述べると、漢語詩には、流暢に読めて、然も感情の移入が容易である!と言う条件がある。

 この条件を満たす爲に、多年の淘汰に耐え抜いた作品をモデルとして、これに倣って、文字数とアクセントを予め決めて置いたものを定型と言う。

 そこで、漢語詩では、予め定型に定められたアクセントに合致した語彙を用いて、句を綴ると言う作業をしなければならない。これは日本語と、ちょうど逆で、こうして造られた作品は、流暢で感情に満ちた作品となる。

 お手元のテキストには、白○、黒●、の印が書かれているが、この印は、文字のアクセントを示す印で、現代漢語では、第一聲調を陰平と言い、第二声調を陽平と言い、共に白○に該当し、第三聲調と第四聲調は共に仄聲と言い、黒●に該当する。

 韵とは、日本語に言い換えれば「母音」に相当する。日本語の母音は「あいうえお」と、とても数が少ないが、漢語ではアクセントが母音構成要素となるので、とても数が多く、古典韵では、百六韵有る。時代の推移と共に、漢語の発音も変わり、また詩法も変わり、現在では、三十六韵・三十二韵・二十八韵などが云われている。

 漢俳を学習する者は、中国の方々との詩歌交流を目指している訳だから、中國で用いられている「韵」を用いるのは当然だが、残念ながら初心者用の現代韵に依るテキストが販売されて居ない。

 依って、古典韵のテキストを使用する事となる。なお、古典韵から、現代韵への移行は、多少異同はあるが、概ね分割数の縮小だから、後日此を修正する事は、簡単に出来る。

 テキストには、平聲の韵◎だけしか編集されていないが、韵は、平聲○と仄聲●の両方に有るので、練習の期間を過ぎ、漢俳の指導者に付いたなら、現代通用の韵と合わせて仄韵に付いても、指導を受けられると宜しいでしょう。

 

第九項 句の作り方

 漢俳の綴りは、漢字五字句+七字句+五字句の構成である。更に五字句は二字+三字の構成で、七字句は四字+三字の構成である。四字句は一字+三字の構成と二字+二字の構成と三字+一字の構成である。

 これは、仮に四字を二字+二字とすると

□□□□□+□□□□□□□+□□□□□

 これを看ると、四字と三字の組み合わせが基本にある事が分かる。

 漢詩詞創作に携わって居る者には蛇足かも知れぬが、「読んでくれる者は素人である」と言う前提を疎かにしてはならない。多少の学習をした者には、たわいのないことでも、素人にはとても難しい!と言う現実を知らねばならない。
 日本人に謂えることだが、構文が複雑になればなるほど、間違いを犯しやすい!という現実がある。日本人の知らぬ語法が多々有るので、漢民族と雖も、語法に適って居さえすれば、如何に複雑な構文でも、綴った者の意図を正確に読み取って呉れるとは限らない。

 其れには、簡単な構文で!
      簡潔に述べること!
の二点を疎かにしてはならない。

 漢詩詞の綴りは二字・三字・四字・五字・六字・七字・八字・九字・・・と有るが、七字の句が綴れれば、殆どの句に対応できる。

 漢語の構成は、主語+述語+客語の三要件と、その並び順が決まっていて、文字数が少く単純な構成なので、この基本形を守れば、殆ど支障なく対応できる。

 主語も述語も客語も、それぞれが単独で用いられるとは限らず、適宜それらを修飾する言葉を付帯して用いる。

 漢語では、主語が予め解っている場合には、往々にして省略される場合がある。依って読者は前後の関連から導き出した仮設の主語に基づいて読む事となる。作る側はその逆で、○+述語+客語の構成となる。(○;省略された主語)

 勿論、述語を自動詞として用いる場合は、客語は無い。依って主語+述語の構成となる。

 内容の綴り方として、一句に幾つの事柄を書き込むかと言う問題がある。一句に一意・二意・三意・・・・と有るが、本稿では一句三意の作例までを示した。また、主語・述語。客語の組み合わせも、類例を参考にして、新たな組み合わせを研究することも可能である。

 以下の解説は七字構成だが、五字の場合は二字減らせば良いだけのことである。

一句一意

主語+述語+客語
紅紅柿葉(主語) 落(述語) 門前(客語)
真っ赤な柿の葉は門前に落ちる

紅紅柿葉落門前

柿葉時時落杖前

蒼然半月照松枝

半月蕭蕭照柳枝

凡人只愛酒屋門

主語+述語
賢人郷里(主語) 只茫茫(述語)
賢人の郷里は只茫茫としている
(述語は自動詞として用いられている)

賢人郷里只茫茫

盈盈白菊十分誇

怡然騒客尚能狂

綿綿歳月亦何妨

依然病骨半凋傷

述語+客語
應知(述語) 懇切故人情(客語)
私は)應に懇切な故人の情を知る
(主語が省略されている)

應知懇切故人情

依然可愛故人情

年年羨看御苑花

模糊仰看碧梧花

頻頻恋慕緑窗紗

 

一句二意

主語+述語+客語;主語+述語+客語
清香(主語) 繞(述語) 舎(客語);月(主語) 侵(述語) 軒(客語)
清き香は舎を繞り、そして月は軒を侵す

清香繞舎;月侵軒

閑人有泪;酒消愁

同胞勧酒;酒題詩

凡夫養老;我憐吾

明眸似玉;泪思郎

主語+述語;主語+述語
平平路(主語) 繞(述語);客人(主語) 倦(述語)
平平とした路は繞り、そして客人は倦む

平平路繞;客人倦

紅紅柿落;白雲流

同窓友健;暮雲深

黄雲気爽;野花愁

佳人緩歩;月光寒

主語+述語+述語 共通の主語
佳人(主語) 獨坐(述語);亦(副詞) 深思(述語)(佳人獨坐;佳人深思)
佳人は獨りで坐し、そして(佳人は)深く思う
注意点;主語を共通にして綴らないと、意味不明の句になります。

佳人獨坐;亦深思(佳人獨坐;佳人深思)

朱唇一笑;亦追思

遊人一酔;亦相酌

渓流水冷;更奔流

花顔私泣;更消魂

述語+客語;述語+客語 共通の主語
躊躇(述語) 白髪(客語);話(述語) 平生(客語)(我躊躇白髪而且我話平生)
私は)白髪を躊躇し、そして(私は)平生を話します
注意点;主語を共通にして綴らないと、意味不明の句になります。

躊躇白髪;話平生(我躊躇白髪;我話平生)

可傷歳月;坐書楼

難抛陋巷;立街衢

無功事業;向東都

自誇白屋;守清貧

述語+客語+客語 共通の主語と述語
難忘(述語) 古刹(客語) 與(格助詞) 楓溪(客語)(我難忘古刹與楓溪)
私は)古刹と楓溪が忘れ難いです
注意点;主語と述語を共通にして綴らないと、意味不明の句になります。

難忘古刹與楓溪(我難忘古刹與楓溪)

最愛幽居和月明

久慕明眸和笑眉

一顧紅唇和妙詞

先知玉露與菊花

 

一句三意

主語+述語;主語+述語;主語+述語
(主語) 飛(述語);蛬(主語) 老(述語);白雲(主語) 流(述語)
楓は飛び、そして蛬は老い、そして白雲は流れる

(主語) 飛(述語) 蛬(主語) 老(述語) 白雲(主語) 流(述語)

(主語) 歸(述語) 霜(主語) 落(述語) 暮鐘(主語) 幽(述語)

 

述語+客語;述語+客語;述語+客語
(述語) 谿(客語) 思(述語) 詩(客語) 立(述語) 寺頭(客語)
私は)谿を繞り、そして(私は)詩を思い、そして(私は)寺頭に立つ

(述語) 谿(客語) 思(述語) 詩(客語) 立(述語) 寺頭(客語)

(述語) 昨(客語) 憑(述語) 欄(客語) 憐(述語) 兩鬢(客語)

 

主語+述語+客語;主語+述語+客語;主語+述語+語

主語+述語+述語+述語

述語+客語+客語+客語

 茲に提示の構成を組み合わせれば、更に多くの構成を提示できるが、此処では敢えて提示していない。構成が複雑になれば成るほど、綴る方でも、読み取る方でも、間違いを犯しやすくなる。

 先ず、提示の構成13ヶを使って、漢俳100首を創ってみよう。最低レベル100首を達成したら、句が綴れる!と言えるだろう。

 構成を探れば更に多くあるが、この余は作例と共に読者の研究に委ねる。また、作品を作るにあたっては、第一句は一句一意の句とした方が、無難である。

 構文が複雑になればなるほど、間違いを犯しやすく、また、日本語を漢字で綴って漢語に成ったと勘違いする笑えない現実もある。

参考;漢詩は首尾一貫が基本原則である。この原則を弁えて句を綴らないと、趣旨不明の作品となります。起承転合をバラバラに作っては、纏まりのない作品になります。

参考;例えば出句の構成を 主語+述語+客語 として落句で 述語+客語 にしますと、省略された落句の主語は、出句の趣旨と言うこととなります。この統一性を欠きますと、意味不明に陥ります。

お断り
厳密な漢文法から看れば、曖昧な点は多々あるが、漢詩詞句を綴る便法として、ご容赦下さい。

 準備無しに五七五字句に挑むのは聊か難しいので、先ずは三四三字句の取り扱いから練習を始める。

 テキスト76頁を開くと、□の中に庚・尤の字が書かれている。此は韵の分類で、□の上側と下側の文字の末字の母音が同じである事を示している。

 練習と言っても、無闇に並べるのではなく、後々使える技倆と成るように、●○◎。●●○○,●●◎。の平仄押韻譜を示した。

 押韵とは、一作品の中に二カ所以上同じ母音を配置する事を云い、漢俳でも末句を含み二カ所以上と定められている。

 さあ!練習を始めましょう!

 此処で一番大事な事は、何を述べようか?等という事は、一切考えない事である。

 ただ漢語文法に違わぬように文字を並べる事だけに注意を払って下さい。

 少し字句が並べられるようになると、色々と自分の思いを書きたく成るのだが、グッと我慢して欲望を抑える事、此が上達の近道です。

 ●○◎。●●○○,●●◎。に倣って文字を充ます。

尤韵上段から「満村秋」を選びます。次ぎに●●から、「萬頃」を選び、○○から「黄雲」を選びます。次ぎに、尤韵下段から「半日遊」を選びます。

 此を全部合わせますと、

満村秋。萬頃黄雲,半日遊。

が出来ました。

 同様に、繞村流を選んでは、四字と三字を付け合わせ、一つ完成させます。同様に、野村幽・夕陽収を次々と選んで、同様に完成させます。

 最低限百箇は創って下さい。延べ十五時間で完了する。

 同様に●●◎。○○●●,●○◎。を創ります。これは、尤韵下段を選んでから、次は上段から選べばよいのです。最低限百箇は創って下さい。延べ十時間で完了します。

 何時も同じ韵では飽きてしまいますから、このテキストは何処を捲っても同じ構成ですから、色々な頁を開いて、創ってみましょう。

 

第十項 句意配置の要領

 句の作り方も、韵の事も覚えた。二字も三字も自由に扱えるようになった。三四三が出来れば、後はその要領で字数を増やせばよいだけのことだから五七五は至極簡単である。

今度は、この知識を使って、句意配置の要領を覚えよう。

 また、75頁を開いて下さい。

 ○○●と○●●は、頁の下の方に「転句」と書かれたところがあります。そこから選べばよいのです。

●●○○●, 目に映る景を書く

○○●●◎。 その景を看た自分の思いを書く

○○○●●, 前句に関わりない自分の思いを書く

●●●○◎。 前句の思を景に置き換えて書く

 尤韵から選んでみましょう。このときも、頭の中は空っぽです。大したことは考えていない。ただボンヤリと窓の外を見ているだけである。これが練習には最も効率的な方法である。

一路西郊景,

題詩紅葉秋。

無人田舎趣,

柿熟夕陽収。

 こうすれば簡単に出来ますから、五十箇創って下さい。延べ十時間で完了します。

 此で、門前に到る準備は完了しました。最所から順を追って練習すれば、ここに至るまでは人様に教えを請う必要は全くありません。

 簡単に創る積もりなら、五字句+七字句+五字句と並べれば良い訳ですから、漢俳は、もう何時でも創る能力は備わりました。簡易に創る方法として、出句を五字として先ず趣旨を述べ、落句を七+五字として、出句の説明をする。これで程々な作品は出来ます。

 

第十一項 入門しよう

 漢俳は非常に易しいから、此でほぼ綴り方は習得した。素人に見せるなら、此までの学習で十分対応出来る。

 ただ此が、漢俳と言えるかどうかは、漢俳の分かる人に聴いてみないと分かりません。其れには、漢詩詞が出来て、更に俳句が出来る人を探さなければ成りません。

 ただ、少しでも評価を得るには、指導者に教えを請うのが手っ取り早い。然し漢詩詞が綴れれば誰でも良いという訳ではない。

 漢詩詞が出来て、更に俳句が出来る人でなければ、その任に当たる事は出来ない。漢詩詞関係の人に教えを請うても、俳句に関連する漢俳は教えて貰えない事を念頭に置く必要がある。

 漢俳論を述べる人は居ますが、述べることと創れることとは別物ですから、創れる事を条件にしましょう。

 

第十二項 海外論文の視点

 漢俳は誕生して日も浅いので、詩法も未熟である。依って詩法の論説を為す者も多い。然し此処で、論拠を見定める必要がある。漢詩詞の中の一定型としているのか?俳句との連携を承知しているのか?何れかを見定めなければ成らない。

 中国社会でも漢俳を作る人は近頃急増している。だが彼等の作品は漢詩詩詞法による漢俳である。稀に俳句詩法に依る創作をする者も居るが、それは海辺の砂粒ほどの存在である。

 俳句との連携を拠点にしているのでなければ、20053月漢俳学会が示した日本俳句との連携を前提とした漢俳の詩法としての論説には成らない。

 論者がどれ程に、俳句を理解しているか?現実に当人が創れるのか?を先ず見定めなければならない。

2005-5

漢俳漢歌自由詩散曲元曲楹聯漢詩笠翁対韻羊角対填詞詩余曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律はこの講座にあります