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日本の漢詩創作者は、何処ぞへ出かけると決まったように詩を作る。数首だけならこれと謂って注意すべき点もないが、其れも数が重なり10首を超えると、それなりの不都合が出てくる。
自分で作って自分で読んで悦に入っているのならさして問題はないのだが、人様に示すと成るとそれなりの工夫は要る。
日本人の多くが、自分で作って自分で悦に入っている様態だが、漢民族は常に相手を意識して作っている。そもそも、平だ!仄だ!韵だ!と喧しく謂うのは相手を意識しているからで、相手が居ないのなら、自分の好き勝手に作ればよいのである。
読者が居るのなら、少なくとも読者を飽きさせない位の工夫は必要である。
先ず面白くないのは、楽しかった!綺麗だった!感激した!の類である。本人は楽しかったかも知れないが、読んでいる方は少しも楽しくない。ああそうですか!宜しかったですね!我が子の自慢をする母親と、孫の自慢をする爺婆と似ている。
次は、どれもこれも、同じ語り口では読んでいて飽きてしまう。いくら美味しいご馳走でも、メニユーの数か少なくては、あまり食欲をそそらない。得意料理ばかりよりは、今一歩でもメニユーの数が多い方が飽きずにご馳走が戴ける。
さて詩作に立ち戻って
叙事法には、完全な状景描写と、情を景物に仮託した「興」の二通りがある。表題の「紀行」は作者が尋ね歩いた土地土地の状況と、そこを訪れたときの思いを文字に表す事を目的としているのだろうから「興」の詩法を用いるのが妥当だろう。
注:詩は作者の心情表現の手段だから、完全な状況描写は詩の範疇に入らないのかも知れない。
興と言う詩法は、情を景物に仮託する詩法で、景物を描写して居るかに見えて、実は自分の謂いたい事を謂っているのである。そして興は景物が主体だから、楽しかった!綺麗だった!感激した!の類は無くなる。
詩法の多用は、この講座でも100を超える詩法が示されているのだから、一つずつ使っても100首連作で全部違う詩法で対応出来る。
組み立ての方法は、例えば三浦半島の岩頭に立ったとしよう。
眼前には果てしない青い海が見える。遠くに漁船が見える。更にその先に貨物船が見える。更にその先に島影が見える。
人それぞれに違うのだが、編者なら、果てしない広さを見て、自分が如何に小さいかを悟らされる。海と天とが接する辺りを見て、天地混沌の理を知らされ、頬に受ける風を感じては、自己と自然との融合を感じ、遠近の舟を見て、人生の努力の跡を悟らされる。群れる鳥を見ては家族を思い、離れる鳥を見ては社会の現実を悟らされる。
これらの思いを眼前の景物を使ってどう組み立てるか?これが興の詩法である。そして観光案内ではないのだから、現実と違って書くのは好ましくないが、景物を逐一遺漏なく書き留める必要はない。心情と景物の関係は、自己心情が主で景物は其れを表現するための材料である。
この様な詩法で作った作品なら、読者を飽きさせないし、読者は観光をしたような気分になるが、実は作者の謂いたい事をすっかり叩き込まれてしまう。
紀行体自由詩散曲元曲楹聯漢詩笠翁対韻羊角対漢歌漢俳填詞詩余曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律はこの講座にあります