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言霊詩詞TpPage

 詩詞作品を分類すれば、その基準の捉え方によって、千差万別と謂わざるを得ない。そのうちの一つに、心の措きよう、言い換えれば作者の心の状態、又はその詩情が何を拠り所にしているのか?と謂うことを基準に分ける事も出来る。

 その一の形態として、目に映り肌で感じた感覚を、自己の経験と謂う眼鏡をかけて覗き、その像を文字に顕すので有る。

 その二の形態として、自己の持ち合わせた人生観や物事の考え方を基にして、心の内でそれぞれの物語を作り上げる。此処で敢えて物語と謂ったのは、自己の観念だけで成り立っている作品と区別するためである。

 物語と謂うからには登場する事物がある。ハエを登場させ、或いはネズミであったり、雲で有ったり、女性であったり、それらが作者の心の内と謂う世界で、縦横に遊ぶ言霊なのである。それは一面虚構のようにも見えるが、虚構ではないのである。作者の心が生み出した分身なのである。

 詩作と謂えども作るには道筋がある。ただ心の赴くままと謂えば、大方にその一の形態に偏り勝ちである。だがもう一つ、その二の形態があると謂うことも選択肢に入れなければならない。

 その二の形態として、「言霊」と謂うことを書いた。だがこれと「興」とは同じではないか?という疑問は出る。この質問に対し私は「否」と言いたい。

 詩の六義の中、叙事法の比賦興の三法、何れも叙事の一法なのだ。だが私の言う「言霊」とは、詩詞を作る態度を言うのである。

 「興」とは、自分の思いを、自分以外の者に代弁させる手法といえる。言い方を代えれば「操り人形」の手法ともいえる。一瞬たりとも操り師の意を離れて動くことはない。だが「言霊」とは、作者の心の内と謂う世界で、作者の分身が縦横に遊ぶのである。

註: 私は、興に類すると思われる多くの作品に出会った。だがその中に、厳密には「興」の範疇には入らぬのでは無いかと思われる作品の有ることを知った。興は作者の操り人形なのに、作者に操られていない作品があるのだ。作品そのものが「格」を有しているので有る。私はこれを「興」とは分けて、「言霊」と言うこととした。

 私は未だ未熟で、その類の作品を作ることは難しいが、会員石倉鮟鱇先生の作品の中に「言霊」と言える作品のあることを知った。一見彼の作品は、遊びのように見られるが、通常の作品とは異なるから見過ごされているだけで、「言霊」と言う見方をすれば、そこには別の世界が展開される。

 石倉鮟鱇先生の作品を提示して、本稿の責に代る。

  七 律・鴉語美人      2001. 1.29 -140
樹頂雙鴉論美人,喧爭諤諤擧声頻;聞道銀座金烏艷,凌駕青山赤羽新?
更愈丹脣粧薄粉,巧梳緑髪對芳春。堅持長嘴蹣跚歩,好看搖腰花底嬪。

  七絶・仙人球          1998. 5.16 -101
仙人球裡有桃源,矮女安詳眠緑園。毎旦喃喃聴耳語,明年学会弄花言?

註:サボテンのなかには桃源があり、小さな女がやすらかに緑の園に眠っている。毎朝、ぺちゃくちゃとささやくを聞けば、来年には学びおぼえて、「花言(うわべだけの華やかな言葉)」を弄するようになるだろうか。;仙人球: サボテン
  七絶・瞠目仙翔        2000. 2. 8 -073
地鉄吐風車站狂,紅裙膨脹胯間涼。誰人撫弄氷肌夾,瞠目飛飛仙子翔。

  七絶・幽魂飛            1998. 1.24 -037
目下雁群共往飛,山河縹渺日熹微。不知彼岸同春景,一路無言望適帰。

   七絶・蝉            1999. 8.27 -934
乱蝉知命喜炎氛,陣雨声般喧聒呻。何恨秋来帰適処,先鳴先落去紅塵。

  七律・清秋鯉語           1998. 7.22 -159
張合大嘴鯉魚歌,難得聴声唱道何。澄水錦鱗如紅葉,清秋風籟渡微波。
労吟厭景弾跳幟,起泡反身潜入渦。疑是既亡唐宋韻,従天雨下散星羅。

 

 

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