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超短詩と填詞TpPage
漢民族の定型詩歌には、近年日本人が提案した超短詩と中国人が提案した漢俳と三聯五七律を新顔に、大別して、曄歌・漢俳・絶句・三聯五七律・律詩・古詩・填詞の七種類がある。
多様な分類法があるのも拘わらず、何故に七種類にしたかと言えば、茲に示されたそれぞれの定型には、各々に固有の特徴があり、各々にその詩法を異にするからである。
以後、項を追って解説を試みるが、一般読者にも理解しやすいように、料理に例えて解説をした。
1−超短詩
曄歌・瀛歌・偲歌・坤歌の四定型を指して言うが、この定型は唯一日本人に依って、近年作られた定型である。超短詩との謂いは、中国詩壇の諸賢が無意識に謂った言葉である。
句の最小単位である三字句と四字句で構成される定型で、此が「詩」と謂えるか?ギリギリの情報量である。
料理で謂うならば;
材料を俎板で切った段階では、未だ料理には程遠い様に見える。然し、全く御馳走ができないかと謂えば、そうとも謂えない。切り方に工夫を凝らし、盛りつけに工夫を為すならば、小品ながらも価値ある御馳走は出来るのである。
2−漢俳
漢俳は近年中国で生まれ、その名の示すとおり、日本の俳壇を対象にした三句で構成される定型である。
漢詩は一部の例外を除いて、起承転合を配した四句以上の偶数句で構成される。一句を減らした三句で作ることは、起承転合の構成を破り、極めて難しい詩法となる。
漢俳は従来の漢詩とは詩法を異にする一種独特な定型で、中国人と日本の俳句関連者が同じ定型で創作する事を前提にしている。
料理で謂うならば;
俳句を作る人は、寿司職人に当たる。寿司は新鮮な食材と、酢飯と握りの微妙さと、山葵を効かせるのである。然し寿司は、一口の喉越しを味わうもので、噛み締めてじっくりと味わう人はいない。
然し中国側から出された漢俳は、煮炊きを繰り返し、味を十分に染みこませた、握り飯ほどの大きさである。噛めば噛むほどに味わいが深く、ゆっくりと食べたい料理である。中華料理の凝縮版である。
寿司職人君も負けじと、お握り大の寿司に挑戦するが、煮炊きの経験がない。寿司作りの延長上で、ネタをの数を多くしてみたが、却って其れが災いして、なかなかの悪戦苦闘で有る。
日本には中国料理を習っている人もいる。珍しいのでお握り大の中華料理に挑戦する者もいる。簡単に作れたような気がするが、噛み締めて味わうには耐えられない技量不足である。彼はまだ修行中で、凝縮版に手を出すのは早い。
中国風寿司を作るのが難しいのは、中国人にとっても同じである。それは、従来の中国料理とは趣を異にした一種独特な料理であるからである。
3−絶句
律詩の半分形が絶句である。漢詩では律詩と絶句は短詩の分類に入る。中国詩壇の同人誌に掲載される作品の殆どは律詩であるのに対し、日本人の作品は殆どが絶句である。
創作の難易は、詩法さえ知っていれば、絶句に比べて律詩の方が易しい。
料理で謂うならば;
料理の分量が多ければ食材の数を多く用いることが出来る。食材の数だけ調理法が有るのだが、一旦覚えてしまえば活用は簡単だから、レパートリーも多くなる。品数が多ければ、一品一品は程々でも、全体としては、マアマアの料理は簡単にできる。
それに引き替え、料理の分量が少ないと、少ない分だけ食材の数も少なくなる。食材の調理法も少なくなり、料理を習うには簡単だが、レパートリーも少なくなる。品数が少なければ、一品一品が旨くないと、全体としても、下手な料理になってしまう。
4−三聯五七律
五言句は観念的、七言句は情緒的な表現に向いている。絶句は四句で構成され、少ない詩法で対応できるが、律詩は八句で構成され、少ない詩法では対応できない。
適切な言葉を見いだせないが、風格においても絶句と律詩では大きな開きがある。これらの要素の良いとこ取りをしたのが、六句で構成される三聯五七律である。
料理で謂うならば;
食材の数も程々で調理法も程々である。程々料理に一品だけ凝った調理を付けた。此なら本格的な調理を知らなくとも気の利いた料理が出来る。
5−律詩
定型詩では一番情報量が多く、詩法の殆どは律詩に対応する。対句が必須だから、対句の醍醐味が堪能できる。
漢俳は、三句で構成されるから、起承転合の何れかを欠く変形で有る。律詩が縦横に出来る技量が身についてから対応すべき定型である。技量不足の者が、漢俳に手を染めると、漢詩の技量を落とす憂いが有るので注意を要す。漢俳は、従来の漢詩とは詩法を異にする一種独特な定型である。
料理で謂うならば;
本格中華料理である。この調理法を会得すれば、レシピの有る無しに拘わらず、殆どの料理に対応可能である。
料理の分量が多ければ食材の数を多く用いることが出来る。食材の数だけ調理法が有るのだが、一旦覚えてしまえば活用は簡単だから、レパートリーも多くなる。品数が多ければ、一品一品は程々でも、全体としては、マアマアの料理は簡単にできる。
中国風寿司に挑戦するには、本格中華料理をマスターしてからでないと、却って寿司職人が中華料理を作ったように成ってしまうので、注意を要す。未熟な者が、基本以外の料理に手を出すと中華料理が下手になる。
修行中で技量不足の者が、他の料理に手を出すと、どちらも身につかない恐れがある。
6−古詩
新体に対しての古詩である。新体に対して規約は少しばかり緩やかである。緩やかな分だけ技量が要求される。技量不足の者が逃れて古詩を作るのは、誤りである。
料理で謂うならば;
このレシピはそれ程厳しく指定はしていない。だから却って難しいのだ。未熟者が、レシピの厳しくないのを、己の技量不足を逃れるために、このレシピを使うのは却って誤りである。そんな手合いが作った料理は、ろくなものが出来ない。
皿の大きさと、鍋が指定されるだけで料理を作るのはとても難しい。
七−填詞
日本人では手がける者が少ないが、詞と謂うジャンルがある。填詞と謂われる通り、その規約は新体詩の其れと変わらぬほどに厳しい。
ただ内容においては、詩とは趣を異にする。詩の雅に対して詞の俗と謂えようか。技量においては、律詩の詩法を弁えている者に対応可能といえよう。ただ、詞は律詩の詩法に更に詞の詞法をプラスして、初めて下準備が出来る。
料理で謂うならば;
ちゃんと料理人の服装をした職人の料理と、ちょっとラフな服装の料理人の作った料理が有ります。どちらの料理人のレシピも、作り方は厳しいようです。ただ服装がラフな分だけ料理も一般向けの様です。美味さはどちらも甲乙付けがたいです。ただ、ラフな服装の料理人の方が、料理法を沢山知っているようです。
レシピの数は、ラフな服装の調理人の方が断トツに多いようです。
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