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漢詩詞から見た
俳句と漢俳の詩法

 漢詩詞と俳句の関わりは殆ど無いが、近年、日本俳句と漢俳が相互交流を為すと言う風評があって、漢詩詞関係者としても、各各の詩法を知っておく必要がある。

 本講は講者自身が日本詩歌に堪能ではない。漢詩詞側から見た一面的な見方であるので、その事は前もってお断りしておく。更にこれらの記述は俳句や漢俳の堪能な人には、当て嵌まらない場合もある。

 先ず漢詩詞は首尾一貫が原則で、綴られた語彙、即ち記載された情報を順次読めば、詩想が読み取れる構造である。提供された情報を順次読み進む行為そのものが、創作者と読者を一体化する事に繋がる。この原則は100句の作品でも、3句の作品でも同様である。

 日本詩歌には短歌と俳句と、その他の詩歌がある。俳句には、その根を同じくする短歌が有る。依って俳句と短歌を対比して、俳句の特徴を探ることとする。
 俳句にも短歌にも、双方に叙法の決まり事がある。然し殆どの決まり事には融通性があって、絶対条件ではない。然し、使用文字数の違いは絶対条件である。

 短歌の仮名三十一字は表意文字約十九字に相当し、概ね十六字令、或いは五言絶句に相当する。これに対し俳句の仮名十七字は表意文字約十字に相当し、曄歌に相当する。

 十六字令や五言絶句と短歌を比べれば、短歌の叙法は漢詩詞の其れと殆ど同じで、記載された情報を順次読めば、詩想が読み取れる構造である。

 詩想を訴えるには、少なくとも首尾一貫した情報が提供されなければ成らない。短歌に対して俳句の情報量は余りにも少ない。記載された情報を、そのまま読み取っても、詩想を読み取ることは極めて困難である。情報不足は敢えて為せる詩法であり、この情報不足を巧妙に活用する手段として、俳句独特の詩法がある。

 ご存じのように鼎の足は三本だけである。要所を弁えた場所に足があるので、安定して倒れもせず、古来より安定の模範として尊ばれている。俳句はこの鼎と同じで、少ない情報提示乍らも、微細から極大まで、あらゆる詩想に対応出来る巧妙な詩歌である。

 俳句の構成要点は、その句の配置にある。則ち、情報提示を極力少なくし、読者が思惟可能な限りに、句と句の隔たりを大きくして、その接点を設ける。

 読者は提供された情報を基点に、独自に思惟を繞らす。例えば三個の情報の提示が有れば、各々を基点に思惟を繞らせば、結果として首尾一貫の情報となる。この思惟を繞らす行為こそがが、作者と読者が一体となる事象であり、俳句の特質である。依ってこの詩法は微細な詩想から、広大無辺の詩想まで縦横に対応できる。

 漢詩詞は多くの情報を提示して、読者と作者が、詩想の一体化を図るが、俳句は極限まで情報提示を控えて、其れが却って読者の思惟を喚起させる。読者は思惟を繞らして、情報の首尾一貫を探り、思惟を作者と共有し詩想を感得する。この行為そのものが作者と読者の一体化で有る。

 中国人は定型に拘らない。現在通用の定型は概ね百餘で、此を分け隔て無く適宜使っているのである。其れに引き替え、日本には定型の数が極めて少ない。更に一人で幾つもの定型を扱う者は少なく、定型に固執する傾向がある。

 人は一面的な存在ではない。当然幾多の詩想を持っている。其れを限られた定型に収めるには、その為の工夫が必要である。

 俳句の仮名十七文字で表せる情報量は、漢字約十字に相当する。情報量としては極めて少ない。此だけ少ない情報量では、小さな詩想にしか対応できないが、詩想の要求は千差万別である。然し俳句はこの困難な状況を「鼎」と言う巧妙な詩法で解決している。

 漢俳は表意文字十七字で構成される。その収容情報量は概ね俳句の二倍に相当する。これだけ情報が提供されると、読者は思惟を繞らさなくとも、与えられた情報だけで、殆ど詩想を読み取れる。

 依って、漢俳には「作者と読者が思惟を共有して、詩想に到達する」という俳句の根幹詩法が欠如している。ただこの不都合を巧みな詩法で好都合に転換できる創作者も僅かにいるが名手の域である。
 結論として、俳句と漢俳は、詩法を異にする定型詩歌である。俳句は微細から極大まで、あらゆる詩想に対応出来るが、漢俳は他の漢詩詞の例に倣って、その持ち分に応じた詩想にしか対応できない。

  漢俳を日本詩歌に置き換える場合は、幾許の詩法の違いはあるが根本的違いのない短歌に置き換えることが、詩法上妥当といえる。漢俳と短歌は可逆関係にある。これに対し漢俳と俳句は詩法上相互に変換できないが、ただこの不都合を巧みな詩法で好都合に転換できる創作者も僅かにいるが名手の域である。

 俳句について、次のように結論した。
 俳句は極限まで情報提示を控えて、其れが却って読者の思惟を喚起させる。読者は思惟を繞らして、情報の首尾一貫を探り、思惟を作者と共有し詩想を感得する。この行為そのものが作者と読者の一体化で有り、俳句の本質であり醍醐味でもある。

 世上多くの佳作と賞される俳句作品がある。入りやすく一読すると解ったような気がする!日月年を経て読者の思惟能力が向上していれば、再読すると、以前と異なった詩想が感得出来る。順次読者の思惟能力に応じて新たな詩想を提供してくれる。

 この事象は情報が少ないが故に思惟が喚起され、読者の思惟能力の推移に応じて、前回とは異なった詩想に到達した!と言うことである。作品が読者の先を行っている!とも言える。

 読者が思惟を繞らせると言う行為は、作者によって仕組まれた意図なのである。何度臨んでも到達できない!と言うことは、作者の意図に填ったのである。掴めそうに見えて掴めない!これが俳句の本質であり醍醐味でもある。即ち俳句詩法の奥義であって、この様な作品を広大無辺の佳作と言うべきである。

 俳句は読者に思惟を喚起し、思索を繞らさせる事を、詩法の根幹とする。依って一読して大方の詩想が読み取れ、何度読み返しても、それ程には詩想の相違のない作品は、作品が読者の思惟能力に追いつかれたからで、情報とその配置が適切でない結果といえる。

 漢俳は情報量が多いので、一読して大方の詩想が読み取れる。何度読み返しても、それ程には詩想の相違がない。此は漢詩詞の本質であって、作品が稚拙というわけではない。俳句とは根本的に詩法を異にする所以である。掴めそうに見えて掴める!これは漢詩詞の本質であり漢俳の本質でもある。

 

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