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第一章 詩経

 中国で最初に編纂された詩集は、孔子が編纂した詩経である。
 紀元前六世紀の孔子の時代に、現在に近いものに結集していたと言はれるが、其の最も古いものは紀元前十二世紀に遡る。
 古代の文化国家とされる周王朝が、西安付近に都していた全盛期から洛陽に移った衰退期に掛けての歌である。
 なお詩経以外にも「詩」ないしは「歌謡」が有ったことは疑いないが、然し確実な文献として存在し、文学的価値の高いものは専ら詩経のみで、詩経は四部に分けられるが、其の中の黄河流域諸国の民謡集であるところの「國風」は大部分が人民の中で歌はれて居たものである。
 他の「大雅」「小雅」「頌」は王室関係の歌で、宮廷内の知識人に依って作られ、周王朝創業を述べる「英雄叙事詩」があるのを除き、全て抒情詩であり純朴な内容である。
 詩の内容に依って大別すれば、風 雅 頌の三つに大別され、内容と編集された詩の編数は、
風ー國の様子の歌 百六十編
雅ー王室の歌 百五編
頌ー神楽歌 四十編
で有って、全編数は題しか残らないものを含めると三百十一編、歌のあるものは三百五編である。
 猶これらの修辞法は、
賦ー真っ直ぐ事柄を述べる
比ー単なる比喩
興ー主題を他の物事に置き換えて表現する比喩
の三っの形式に分類され、「風雅頌賦比興」合わせて詩の「六義」と云われている。
 孔子は紀元前五百五十二年から四百七十九年の人で、編纂に当たって重複を省き、「礼の義に叶うもの」三百五編を編纂したと云い、孔子が弟子達への教科として、又広く人類の教養として重視した事は、論語に屡婁あらわれる所である。
 「詩三百、一言を持って之を蔽へば、曰く思い邪なし」とは、詩の締は感情の純粋さに有るとし、「詩三百を誦すもこれを授けるに政を以て達ゆかず、四方の國に吏となりて專りにて対たうる能はずば、多かしと雖も亦奚を以てか為さんや」と、詩から摂取した教養が、実務家としての人格にも作用すると云っている。
 この事は何も古代人に限った事ではない、純粋な精神は何時の世にも大切な人格形成の要素である。

詩経國風  周南 桃夭
 とうよう

桃之夭夭 灼灼其華 麻韻
 若々しい桃の木、艶艶した其の華(その様に美しい)

之子于歸 宜其室家 麻韻
 此の娘はお嫁に行ったら、旨く其の家庭に調和しよう

桃之夭夭 有賁其實 質韻
 若々しい桃の木、盛り上がった其の実(その様に充実した)

之子于歸 宜其家室 質韻
 此の娘はお嫁に行ったら、旨く家庭に調和しよう

桃之夭夭 其葉蓁蓁 眞韻
 若々しい桃の木、葉はふさふさ(その様に整った)

之子于歸 宜其家人 眞韻
 此の娘はお嫁に行ったら、家中の人と調和しよう

 詩経の第一巻、周南の巻に納められている歌、良き時代の幸福な女性の歌で、女性と花とは似つかわしいものだが、此の歌のヒロインは明るく華やかで、而かも健康な桃の花にふさわしい娘である。
若々しく青々と繁った桃の木に、今を盛りと咲き誇る桃の花に歌人は、花に重ねて娘に想いを馳せる、あの娘はもうお嫁入り、、、、。
 興と呼ばれる手法を用い、どの章も、韻に関係ない第一句と第三句は同じ文句を繰り返し、押韻をする第二句と第四句では一章毎に韻字を換え、其れに伴って文句に変化を付けている。

詩経國風 魏風 碩鼠
でっかいねずみ

碩鼠碩鼠 無食我黍 語韻
 でっかい鼠よでっかい鼠よ 俺の黍を喰うのはよしな

三歳貫女 莫我肯顧 遇韻
 三年お前に貢いでやったが 俺らを構う気持ちは無いんだね

逝将去女 適彼楽土 廬韻
 さあお前を見捨てるぞ そうして楽しい國へ逝くんだ

楽土楽土 奚得我所 語韻

 楽しい國よ楽しい國 奚こそ俺らの落ちつき場所

以下十六句省略 

 幸福な黄金時代は過ぎ去り、営々と働きながらも生活苦から解放されない人々は、自分達の苦しみを歌に託してそこに僅かな慰めを見いだした。
 而かも人民の鋭い眼は、自分達の苦しみの根元に迫る事があって、同じ魏風に属する「伐檀」の詩はその事を示している。
 歌い出しの碩鼠、巨大な鼠とは重税を取り立てる君主の事であり、農民の一年の血と汗の結晶である収穫物を、鼠が遠慮無く喰い散らかす様に、君主は年貢を取り立てる。

注:古体は概して純朴な、荒削りの様に見られるが、かと云って疎雑の感が なく力強い作品が多い。
  今体は繊細な内容の作品が多いので、内容に依って詩形が定まり、詩形 に依って内容が定まる。
  作詩に着手する前に、お手本の詩の構造を調べる必要があり、古詩は韻 さえ踏めば良いのだ等と云うが、古詩でも歌である以上必ず平仄と韻を調 べ、どの様に成っているか、再確認の努力をしなければならない。
  茲に作品があるので作詩の参考にされたい。ソビエトが北方領土を占領 している事を歌っている。      (録黒潮集四十五巻一号)

碩鼠 現代の作品 今井適斎 豊中
碩鼠碩鼠 領我北岸 翰韻
既食我黍 胡玩核弾 翰寒韻
爆爆震霆 如何避難 翰韻
優心慇慇 念爲・悍 寒韻
碩鼠碩鼠 領我北巒 寒韻
既食我秬 胡玩核丸 寒韻
鑠鑠雲傘 如何謀安 寒韻
優心惨惨 嗟勢未殫 寒韻

藍川曰、詠出四言構想甚妙、烈烈言志局勢変換亦可聆也

注:ソビエトが北方四島を占領している事の風刺。

雅 文王
ぶんおう

文王在上 於昭于天
 文王は上に在まし ああ天に昭かなり

周雖舊邦 其命維新
 周は旧き邦なりと雖も 其の命は維れ新たなり

有周不顕 帝命不時
 有周は甚だ顕かなり 帝の命は甚だただしきなり

文王陟降 在帝左右
 文王は陟り降りて 帝の左右に在ます

齏齏文王 今聞不已
 努め励みし文王の 良き名はやまず

陳錫哉周 候文王孫子
 しき賜いて周を始めるは 候れ文王の孫

文王孫子 本支百世
 文王の孫 本支と百世

凡周之士 不顕亦世
 すべ おのこ あらわ
 凡ての周の士は おおいに亦世に顕る
以下四十句省略

 大雅の一番最初に位置する一編、大雅は周王朝の祖先の伝説を語り、創業期の君主の功績を讃える叙事詩風のものである。
 中国は最初から抒情詩として発展しており、ギリシャやインドに見られる壮大な叙事詩はあまりない。
 周王室の栄を壽ぎ、亡国後の殷の人々の惨めな有り様を思い、現在の繁栄の基礎を築いた文王の偉大な人格を偲んで、殷を戒めとして文王の教えに従えば、周の國は万々歳だと諭す。(万歳の言葉は漢の時代が始めか?)

頌 閔予小子
    びんよしょうし

閔予小子 遭家不造
 悲しきかな我小子よ 家の造らざるに遭いて

環環在疚 於乎皇考
 独りぽっちに病にあり 於乎父君よ

永世克孝 念茲皇祖
 永世に克く孝なり 茲に皇祖を念えば

陟降庭止 維予小子
 陟り降りて庭にあり 維れ我小子よ

夙夜敬止 於乎皇王
 夙な夜なに敬む 於乎皇いなる王よ

繼序思不忘
 序を継ぎ思いて忘れざるなり

 周頌の一編である、父王の死後に新王が父王を霊廟に祭り、悲しみを新たにすると共に家国の継承を誓う歌。
親を失う事は、人生最大の悲哀とされ、其の為に親の死に関する物事を表現する事は厳重に忌まれる。
 親の死は文学的表現を与える事さえ、耐え難い悲しみで、従って妻や子、友人の死を嘆く詩は沢山有るが、親の死を嘆く詩は始んど無い。
 其ればかりか喪服中は、礼の規定により作詩を禁止され、例えば劉宋の詩人謝恵運は、父の喪中に詩を作った為に、罪に問はれ出世出来なかった。
 此の詩と、此の姉妹編とも云うべき「訪客」の詩などは極めて稀な例と云える。 (録中国古典選)

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