漢民族詩詞の歴史 中山逍雀漢詩詞填詞詩余楹聯創作講座 TopPage  PageTop  こちらからもお探し下さい

漢民族詩詞の歴史
這事項根拠中國詩詞壇誌論説

第1章詩経

第2章楚辞

第3章

第4章

第5章

第6章南北朝隋

第7章   初唐  盛唐  中唐  晩唐 
第8章

第9章

第10章

第11章

第12章

第13章現代

第14章 漢民族の歴史と詩歌概論

 もし友人の人となりを知ろうとしたとき、友人の言動や業績など身近な所に情報を求めても、彼の本質を知ることは出来ない。
 深く知ろうと思わないのなら、身近な情報だけで事足りるが、彼の本質を知ろうとすれば、其れでは不十分である。少なくとも祖父母あたりからの、生まれ育ちを知らなければ、彼の本質は解らないのである。
 漢詩詞の場合も同様である。ただ上辺だけを知ろうとするなら、作品の文字面と其処に書かれた表面的な内容と、その近辺の情報を得れば、其れで事は足りる。然し、それはあくまで、上辺だけの理解である。

 漢詩詞は千数百年の、平和なときも悲惨なときも、ありとあらゆる世相を経て現在に到る文化である。タイムカプセルの様に、突然この世に現れたのではない。
 文化などというものは、人の一生から比べたら途轍もなく膨大である。漢詩詞の本質を知ろうとするには、詳細ならこれに勝ることはないが、簡単でも良いから、漢詩詞の生まれる数代前にまで遡って、一通りの情報を得る必要がある。

 

漢民族と詩詞曲概略
 国家盛衰の現実は、繁栄、抗争、内乱、侵略、背叛、抵抗、敗走、異民族支配・・・などの要件が入り交じり、更にこれらは、時間と地域とが互いに交錯している。
 然しこれらを逐一陳べたのでは、その情報量は膨大で、本稿趣旨に馴染まないので、それら詳細を省き、簡略に記述した。

 中国は多民族国家で有る!とは皆の謂うところである。多民族国家の歴史は、単一民族国家とは比べ物にならない程の離合集散と戦乱の歴史でもある。 漢詩詞は中国大陸人口の8割を占める漢民族の詩歌である。唐以前は幾つもの政権が戦乱と離合集散を繰り返した。歴史上に名を留める群雄割拠の時代である。随を経て唐の時代になって、漸く諸國政権が平定された。依って国内が安定し、産業が発展し、文明が爛熟した。所謂 唐であり「唐詩」である。

 群雄割拠の時代を経て618年唐王朝が成立し、安定した時代を迎えたが、その政治体制の安定を継続維持するためには、支配階級の衣食住を賄う爲の重税と、国家体制維持の課役が必要である。
 依って安定した国家と相俟って、重税と課役に喘ぐ悲惨な多数の庶民が居たと言う現実もある。唐代に詩を完成させた文人達は、其の支配階級に属して居た。

 漢民族は唐代に、極めて文化的価値の高い詩歌として、唐詩を完成させたが、豊かな治世は何れは凋落し、時代の趨勢として宋代に詞が盛んになった。其れも次に訪れる異民族占領統治下に於いては、長くは続かなかった。

 唐詩は完成された漢民族定型詩歌としての、文学的な価値と地位は現代に到るも揺るぎないものである。唐より時代が下がって、宋詩、金詩、明詩、清詩と有るが、何れも唐詩の株に芽生えた、枝葉と謂うべきである。平和は常に堕落を生み、宋代になって、詩は枝葉を伸ばすが、株には及ばない。その後異民族占領統治下の長い時代を迎えたのである。

 宋代には政治の堕落から異民族阻止も儘成らず、遂には女真族の侵攻に抗しきれず、漢民族は女真族(金王朝)の占領統治下の民族となる。

 異民族(女真族)は漢民族への占領統治策として、科挙制度と漢民族の文化は温存した。依って、異民族占領下でありながら、文化の荒廃には到らなかった。この時代の作品を金詩と謂う。

 次に蒙古族は女真族侵攻の漢民族の地に侵攻し、女真族政権を打倒し、漢民族の地を占領した。

 蒙古族は其れまでの女真族と異なり、暴力による占領統治(独裁恐怖政治)を為した。其れまで温存された科挙制度は廃止され、詩歌文化も荒廃した。この時代を「元」と謂う。漢民族は、ほぼ100年間、蒙古族に生殺余奪を恣にされ、悲惨な被占領統治下の民族と成った。

 蒙古族に依る異民族占領統治下の漢民族文化の中、漢詩詞は衰微の一途をたどり、僅かに南方にに於いて命脈を保つ程となった。それに引き替え、北方からの元曲が盛んになった。

 元とは蒙古族による異民族支配下の時代を指す名称である。中華大陸総人口の八割を占める漢民族からすれば、蒙古族占領統治下、元の時代の曲という意味である。

 元曲には、戯曲と散曲の二通りが有る。散曲には元の時代に盛になった北曲と、時代が下がって、明代に成って、盛になった南曲とがある。(明は南方地域に朱元璋が建国した政権)

 北曲は蒙古族の占領下に於いて盛になり、南曲は朱元璋の建国に相俟って、明の時代に盛になった。

 蒙古族の侵攻により、詩はもとより詞も衰微の一途を辿り、此に代わって北方胡人の俗謡が台頭し、散曲となった。(中原音韵)詞の主体は一種の抒情詩で有って、含蓄を尊び、典雅に重きを置き、 隠喩を常用する。

 それに対し、散曲は、自然の酣暢を尊び、直裁的な事実を詠い、口氣は真と情に迫る。

 情は更に廣く、叙事の理を言う。即ち諷刺、嘲謔、嬉笑怒罵、尽情揮洒等であって、時代性と群衆性は頓に突出している。

 散曲と詞は一部に融通している處もあるが、蒙古軍が進駐する以前にも、曲が無かった訳ではないが、古代では詞と曲の区別はなかった。

 亦、蒙古人は、詞を楽府と言ったこともあった。亦、ある人は、曲を詞余とも言った。

 詞と曲の違いは、詞は比較的典雅 書面語が多く、比較的含蓄に富み、主に婉約と豪放の二通りがある。それに対し、曲は通俗語、口語化され大衆化されていて、賦を主な表現方法として、豪放と清麗の二通りがある。

 暴力による生殺余奪を恣にした蒙古族は、南方から蜂起した朱元璋に依って、放擲され、此処に100年続いた蒙古族による異民族占領地支配は終り、漢民族は自分が生まれた土地を自分で統治する時が到来した。

 然し朱元璋が1368年に建国した「明」は、蒙古族の占領地統治の手法(独裁恐怖政治)を自国の統治に使用したのである。依って、漢民族の文化は、蒙古族占領統治下と余り変わらぬ状況であった。

 朱元璋が建国した「明」はその後、代を重ねるに従い、政権の弱体化と、度々の蒙古族侵攻などを経て、1644年に女真族の侵攻を受けて南方に敗退し、南明を建てて女真族に抵抗したが、遂に抗しきれず、1673年雲南からビルマに遁走して明王朝は滅亡した。

 1673年に300年続いた「明」も、再び女真族に放擲され、「清國」となる。異民族の占領地政権は「清國」で、清国の占領地統治の手法は、同じ女真族「金」と同じで、漢民族の文化は復活した。

 漢民族は、240年間女真族による異民族統治下に有ったが、1911年「孫文」が蜂起した辛亥革命で清国は滅亡し、漢民族による漢民族の国家、中華民国が誕生した。

 その後の中華民国は「毛沢東」が蜂起した共産主義革命に依って、1949年、共産党による国家として、中華人民共和国が誕生した。

 毛沢東に依る共産革命から17年後、国内安定も未だしの1966年、内部権力抗争が顕在化して文化大革命が起こった。文化大革命は10年の殺戮と混乱の歳月を経て、1977年に漸く収束した。

 この思想弾圧恐怖政治の10年間に、1000万人(国民の100人に1人が命を落とした)余の有為な人命が失われ、多くの文化人もその犠牲者となった。

 1978年、胡耀邦氏やケ小平氏に依って改革開放政策が実施され、平穏な漢民族国家と成った。漢民族は唐宋の滅亡から始まった異民族侵攻による占領統治下の苦渋を経て1000年あまり、漸く此処に、漢民族による漢民族国家を建国したのである。

 阿片戦争に依って英国に略取された中国固有の領土、香港が1997年に、中華人民共和国に返還された。

 阿片戦争に勝利したポルトガルに依って、1845年に植民地化された中国固有の領土マカオが、1999年12月19日に、中華人民共和国に返還された。

 中華人民共和国は共産主義国家だが、香港とマカオを特別行政区として、主権国家の枠組みの中に於いて、一定の自治を認める一國兩制を採用している。

 こ注意!! このホームページに関わる一連の資料には“著作権”が有ります。またその一部は既に著作権登録が為されています。研究や学習の為に個人的に使用する場合に限り、複写して使用することを許可します。そのほかの方は著作権者の同意を得て下さい。なお著作の大小に関わらず出處と著者名を常に明示して下さい。

PageTopへ

歴史漢俳漢歌自由詩散曲元曲楹聯漢詩笠翁対韻羊角対填詞詩余曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律はこの講座にあります