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  第三章 漢

 漢の時代とは、前二百六年沛の人劉邦が秦を破って、漢の高祖として即位してから、二百十九年劉備が漢の中王と称し、関羽が敗死する迄の四百二十年あまりを云う。
 此の間に詩の面で登場する人物としては項籍や、彼のライバルで有った劉邦 劉徹 劉細君等がいる。
 亦詩としては文選に収められている古詩十九首、楽府古辞などがある。


三の一  項籍

 字を羽と云い項羽と称す、(前二三二ー二0二)丁度秦の衰退期の人物で、天才的な武将であって、劉邦と覇を争い秦を倒し、一時天下に号令したが政治能力を欠いたため、亦自分も劉邦に倒された。

史記項羽本記
 項王軍壁垓下 兵少食盡 漢軍乃諸候兵 圍之數重 夜聞漢軍四面皆楚歌 項王乃大驚曰 漢皆已得楚乎 是何楚人之多也 項王則夜起飲帳中 有美人名虞 常幸従 駿馬名騅 常騎之 於是項王乃悲歌慷慨 自爲詩曰

力抜山兮気蓋世 時不利兮騅不逝

騅不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何

歌數闕 美人和之 項王涙數行下 左右皆泣 莫能仰視

注:自分の政治能力の無い事を棚に上げて、事が旨く運ばないのは時勢のせいだ、などと云っているが、日本人から看れば興味ある発想である。

 余り信憑性はないが、「楚漢春秋」にこの時の虞美人の作としてこんな詩がある、之が事実とすれば五言古詩最古の作品と成るそうだ。

漢兵已略地 四方楚歌聲
大王意気盡 賎妾何聊生
 漢兵既に地を収め 四方楚歌の声 大王の意気尽き 卑しき妾女は生を如何んせん



三の二 劉徹(漢武帝)

 漢の五代皇帝、本名は劉徹 其の治世は五十四年の長きに亙り、漢王朝の極盛期、中国古代帝国の頂点に達する時期で、現在我国の年号という制度が、此の時期に始まった事からも、帝の事業の偉大さが窺い知れる。
 武帝が黄河を東に渡って、地の神の祭を行った時に、汾河を渡る舟の中で群臣と宴会を催し、上機嫌で作ったと伝えられている詩。
 時に帝は四十二才、匈奴など四方の移民族えの度々の遠征に成功し、大規模な祭祀を帝国の各地で営むなど、華やかな時代で有ったが、一方では即位以来の積極政策の矛盾が増大し、国内が不安になって来た時代で、栄華を極めた皇帝にも、一筋の哀情が忍び寄るのを如何とも成し難かったに違いない。
 汾河は山西省を流れる黄河の支流で、此処に云う「秋風」とは、思いて叶わざる無き絶対君主に有りながら、而かも猶自己の力ではどう仕様も無い物の存在と、自己の力の限界をひしひしと自覚した武帝の悲哀を誘う物としての其れであろう。

注: 此処に雅会で良く行はれる「柏梁体」と云う作句法がある。
  これは漢詩の一体で、同一韻で各自一句ずつ作り、これを集め一首とす る詩法で、其の発祥は漢の武帝が柏梁台の落成した時に、群臣を集め此の 方法で作詩したと言われるが、この事が事実なら七言連句の最古となるが、 偽と云う説もある。

秋風辞録古詩十九首  劉徹
 秋風の辞

秋風起兮白雲飛 草木黄落兮雁南歸
 秋風起こりて白雲飛び 草木は黄ばみ落ちて雁は南へ帰る

蘭有秀兮菊有芳 懐佳人兮不能忘
 蘭に秀有り菊に芳有り 佳人を懐いて忘るる能はず

汎楼船兮濟汾河 横中流兮揚素波
 楼船を浮かべて汾河を渡り 中流を横切りて白波を揚げる

簫鼓鳴兮發棹歌 歓楽極兮哀情多
 簫と鼓を鳴らして棹歌は起こり 歓楽極まりて哀情多し

少壮幾時兮奈老何
 少なく盛んなる時は幾時ぞ老いを如何んせん


三の三 文選 古詩十九首 録二首

行行重行行
 行き行きて重ねて行き行く

行行重行行 與君生別離
 行き行きて重ねて行き行き 君と生きて別離たり

相去萬餘里 各在天一涯
 相去る事万余里 各々天の端にあり

道路阻且長 會面安可知
 道は険しくしてかつ長く 面を会はせるは安くにか知るべけんや

胡馬依北風 越鳥巣南枝
 胡の馬は北の風に従い 越の鳥は南の枝に巣くう

相去日已遠 衣帯日已緩
 相去る事日々に已に遠く 衣の帯は日々に已に緩む

浮雲蔽白日 遊子不顧返
 浮かべる雲は白日を隠し 遊子は帰る日を思わず

思君令人老 歳月忽已晩
 君を思えば人をして老いしめ 歳月は忽ち已に暮れぬ

棄捐勿復道 努力加餐飯
 捨てられし事は又云う勿れ 努力して喰う飯を加えん

 此の詩は遠く離れた人を思慕する歌で、誰が誰を思慕するかに付いて諸説有るが、前半八句は夫が故郷の妻を、後半八句は妻が旅先の夫を慕う、が分かり易い。
 故郷を離れて旅路をどんどん重ねていく、これは夫の現在の状況で、愛しい妻よこうしてお前と生き別れに成って仕舞った、何時の間にか俺は万里の遠く迄来て仕舞った、二人は大空の一方の端と端とに別れて住む様に成って仕舞ったのだ。
 お前の顔を二度と見られるかどうか分かるものか、北方砂漠の胡の地方で生まれた馬は、故郷から吹いて來る北風に出会うと其れに付いて行き、南方揚子江越の國からやってきた渡り鳥は、故郷を慕って必ず南の木の枝に巣を架けると云うのに、まして人間の俺に、故郷とそこに待って居て呉れるお前が恋しくない筈が有ろうか。
 同じ頃、夫の思いを知る由もない故郷に遺された妻は、便りも無い夫を慕い且つ怨んで歌う。
 貴方と私は日に日に遠く離れ行く一方で、悲しくやるせない思慕にさいなまれ、私はゲッソリ痩せて、着物も帯も日に日にだぶだぶに成って行く。
 空に浮かぶ雲がお天とう様を隠して仕舞うように、旅の空で貴方は何やらに気を取られて、私の事など思い出しても見ないと見え、一向に帰ろうともして呉れない。
ひたすら
 只管貴方の事を思い続けていると、其の思いが私をどんどん老けさせ、月日は何時の間にやらあっけなく過ぎ、もう年の暮れ、其れに貴方の消息さえ無いのは、きつと私は捨てられたのだわ、もうあんな薄情な人の事をとやかく云うのは止めにしましょう。
 無理矢理にでもご飯をどっさり戴いて、元気を取り戻すわ。

注: ご飯を沢山食べる、の表現は女性の励ましの言葉の様だ。
  史記巻四十九 外戚世家に「行け強いて飯してこれを努めよ」とある。
  金瓶梅にも此の記述がある。
注: 愁殺とは「愁」が主意で有って、「殺」は助字と云い、ある種のニュアンスを与える語法で、「殺」の意味とはならない。
  一例を示せば、「却 著 着 住 断 罷 與」などが有り、更に「帽子 椅子 孩子 凍殺」等も概ね此の類で、邦人は殊に注意を要す。

去者日以疎 録古詩十九首
 去りし者は日に以て疎とし

去者日以疎 生者日以親
 去りし者は日に以て疎とく 生ける者は日に以て親し

出郭門直視 但見丘與墳
 郭門を出て直ちに見れば ただ丘と墳とを見る

古墓犂爲田 松柏摧爲薪
 古き墓は犂かれて田となり 松と柏は砕かれて薪となる

白揚多悲風 簫簫愁殺人
 白揚には悲しき風多く 簫簫として人を愁い使む

思還古里閭 欲歸道無因
 古里の村へ帰るを思えど 帰らんとして道の因るべきなし



三の四 楽府古辞

 漢代頃の民歌を楽府古辞と云い、楽府とは漢代の役所の名で、武帝時代に設けられ宮廷の音楽を司り、演奏される歌の歌詞や民間歌謡を取り扱ったり、亦人民の声を採取しこれを政治の施策の参考にする為との目的で、行政の一環として積極的に行われていた様である。
 その後楽府の役所に集まった詩そのもの、亦は其れを模倣して作った詩も、楽府と云われる様になった。
 後世の模作と区別する為に、漢代の作を殊に古辞と云い、歌物語風な物や、情歌や死を嘆く叙情なものなど有るが、作者は判からない。
 
孤児行
 孤児の歌

孤児生 孤児遇生 命獨當苦
 孤児の生 孤児の生に逢うは 命の独り苦しきに当たる

父母在時 乗堅車 駕駟馬
 父母の在ませし時は 堅き車に乗り 駟の馬を駆けたり

父母已去 兄娉令我行賈
 父母已に去りてより 兄と兄嫁は我に行商を為さしむ

南到九江 東到斎與魯
 南は九江に到り 東は斎と魯に到る

臘月來歸 不敢自言苦
 師走に帰り來たれども 敢えて自ら苦しみを言わず

頭多蟻虱 面目多塵
 頭には虱多く 顔は塵おおし

大兄言弁飯 大娉言視馬
 上の兄は飯を作れと言い 上の兄嫁は馬の手入れをせよと云う

上高堂 行取殿下堂
 高き堂に登り 殿下の堂に行き趨る

孤児涙下如雨
 孤児の涙は流れて雨の如し

使我朝行汲 暮得水來歸
 我をして朝に水汲みに行か使め 暮れに水を得て帰り來る

手爲錯 足下無菲
 手はひび割れを成し 足の下に草履なし

愴愴履霜 中多○○
 愴愴と霜を踏めば 中には刺棘多し

抜断○○腸几中 愴欲悲
 抜け断えし棘は脹ら脛の肉の中にあり 傷みて悲しまんと欲す

涙下渫渫 清涕○○
 涙下る事ボロボロとし 清き鼻汁はボトボトと落つ

冬無復襦 夏無單衣
 冬には袷無く 夏には単衣なし

居生不楽 不如早去
 此の世に居りても楽しからず 早く去りぬに如かず

下従地下黄泉
 下の方地の下にて黄泉に従わん

春気動 草萌芽
 春の気は動き 草は芽をもやす

三月蠶桑 六月収瓜
 三月に蚕と桑の事をし 六月に瓜を収る

将是瓜車 來到還家 瓜車反覆
 此の瓜車を引きて 来たり到りて家に還りしに瓜車の反覆る

助我者少 啗瓜者多
 我を助ける者は少なく 瓜を食らう者は多し

願還我蔕 兄與娉嚴
 願はくば我に蔕を返せ 兄と兄嫁は厳し

獨且急歸 當與校計
 独り且に急ぎ還れば 将にいざこざを起こすべし

乱曰
 返し歌に曰く

里中一何○ 願欲寄尺書
 村の中ひとえに何ぞ騒がし 願はくば尺の書を寄せて

将與地下父母 兄娉難與久居
 将に地下の父母に与えんと欲す 兄と兄嫁とは共に久しく居り難し

 古代の人々の強く明るく生きる姿の歌も多いが、人々の生活は元々幸福ばかりでは無く、苦しい暗い方面、虐げられ打ちひしがれた生活をする人々の方がはるかに多かった。
 楽府の歌には、その虐げられた人々の哀しみも歌い込められ、「孤児行」はその一つで、父母を失った少年が兄夫婦に虐待酷使される苦しみを歌う。

注: 封建的な大家族では、家長が強大な権力を振るい、家産は家長に集中す る為、兄弟で有っても家長の権勢の下に、不本意な生活を送らねばならぬ 事も多くあり、兄弟の関係は更に其処へ情と欲が絡むので、今も昔も中々困難な問題で、小説の題材にも甚だ多い。

薤露歌
 韮の露の歌

薤上露 何易晞
 韮の上の露 何ぞ乾き易すきや

露晞明朝更復落 人死一去何時歸
 露は乾き明朝また落ちるに 人の死して一度去れば何時の日にか帰らん

蕎里曲
 蕎里の曲

蕎里誰家地 聚斂魂魄無賢愚
 蕎里は誰が家の地ぞ 魂魄を聚斂して賢愚なし

鬼伯一何相催促 人命不得少踟躇
 鬼伯はひとえに何ぞ催促すや 人の命は少しも躊躇うを得ず

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