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第十章 元

 十三世紀の世界史で最も大きな事実は、ヂンギスカンに始まる蒙古族の武力が、暴風の様に世界を吹き巻くった事である。
 中国は云うに及ばず、東は「元寇」として日本にも及び、西はヨーロッパ迄吹きすさんだ。
 女真族の国家「金」が其の犠牲になって滅んだのは千二百三十五年で、南に有った宋はその後も命脈を保って居たが、ヂンギスカンの孫でフビライの時代になって南征が開始され、千二百七十九年に文天祥等の抵抗も空しくついに滅んだ。
 蒙古の侵略は全くの暴風であって、先ず蒙古軍の包囲に対して降伏を申し入れた街は見逃される。
 然し陥落前少しでも抵抗を試みた街は、陥落後住民の全部を虐殺し、俳優、大工、その他技術者だけを例外とするのが、蒙古の侵略の掟であって、此の掟は厳格に守られた。
 侵略は生命に対する脅威ばかりでは無く、蒙古人はその頃中国の文明に対し最も無理解な部族であって、蒙古は中国の文明に触れるより先に西域中央アジアの文明に接した事が、其の要因の一つであると言われ居る。
 漢民族が他の民族に支配されたのは、満州の女真族に依る期間であるが、金は漢民族の文化を大いに取り入れ、最も文明に対して従順で有って、中国の文明に対する尊敬の象徴としての科挙の制度を忠実に実行した。
 然し元に於いてはそうでは無く、やっと孫のフビライの代になって、中国を理解する様には成ったが、とても文学に迄は至らなかった。
 南宋末期、元に対する抵抗の時代、文天祥が有名で日本でも江戸時代の末期には、攘夷論者に取って彼の事跡はバイブルでもあった。
 然しその様な目立った現象と共に蒙古人による統治が、漢人の政治関与を制限した事に依って、南宋亡国後の南中国には静かなそして広汎な重要な画期的な現象が起こりつつあった。
 それは漢人の政治関与への抑制が、其のエネルギーのはけ口として、一つには商業の発達と、又文学の発展でもあった。
 そこで詩に付いて一例を示せば、南宋亡国後十年「呉渭」が懸賞付きで「詩」を浙江各地の詩社から募った。
 題は「春日田園雑興」で、二千七百三十五人の応募者があったと云う事は、少なくとも其れだけの作詩能力のある人が居たという事で、文学が如何に広汎に普及して居たかと言う証明でもある。

入選作 春日田園雑興 羅公福

老我無心出市朝 東風林壑自逍遥
 老いし我は市朝に出ずるに心なく 東風の林と谷と自ずから逍遥す

一犂好雨秧初種 機道寒泉薬旋澆
 耕すに好い雨に苗を初めて植え 幾道の寒泉は薬に即ち注ぐ

放犢晩登雲外隴 聽鴬自立柳邊橋
 犢を放ちて夕べの雲の登る外の畔 鴬を聞き自ら柳の辺の橋に立つ

池塘見説生新聲 已許吟魂入夢招
 池塘には見え説う新しき草生え 既に吟魂の夢に入りて招くを許す

注: 此の時代になって、市民の詩人を読者とする平易簡便な、作詩教本が数々作られる様になった。
  「瀛奎律髄四十九巻」「唐宋千家聯珠詩格二十巻」「詩林広記」などが 有り、此の時代には作詩が最早一部の文化人の独占物では無くなって、誰でも詩が作れる様に成った。

 此処で非漢族に依る作品を紹介しよう。
客中九日  薩都刺

佳節相逢作遠商 菊花不異故人郷
 佳節に相逢うて遠き商人となる 菊花は故人の郷と異ならず

無銭沽得隣家酒 一度孤吟一断腸  
 銭の隣家の酒を買い得る無し 一度の孤吟一たび腸を断つ

病中雑詠  薩都刺

爲客家千里 思歸月満樓
 客と為りて家千里 帰りを思えば月樓に満つ

木犀開欲盡 病裏過仲秋
 木犀開いて尽きんと欲す 病の仲に仲秋をすぐ


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