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第十二章 清
一六七三年に約三百年続いた明も満州族「金」に滅ぼされ、後金の後、改めて「清」と成る。
そして一六七三年と云えば、日本では一六五一年に由比正雪の乱があり、赤穂老士の討ち入りが一七0二年で有る。
元禄時代より明治維新を経て、大正元年の一九一二年に孫文が臨時政府を樹立するまでの二百四十年間である。
この頃になると日本でも漢詩作者が多く輩出する様になり、頼山陽 江馬細香 梁川星巌 など枚挙に暇がない。
亦この頃日本では時代の変わり目で、吟詠界で良く取り上げられる悲憤慷慨調の詩も多くはこの頃の作品で、大陸では王魚洋 銭牧斎 屈大均 などこれも数え切れない程の作者が居る。
詠春秋戦国人物十二首禄二首 日本 頼山陽
管夷吾
姫旦経緯密 復見九州裂
姫旦経緯密なり 復た見る九州の裂けるを
周公の定めた制度は実に緻密だったが、時久しくして九州は再び分裂した
海岱政令新 匡時須俊傑
海岱の政令新たに、時を匡て俊傑を須う
斎の國には名君桓公が出て政令を一新、遂に天下を一匡した
夏葵吐異葩 不襲桃李徹
夏葵異葩を吐き、桃李の徹に襲らず
かの葵の丘の會盟に於いては、人徳を持って民を化する王道とは趣の変わった、力を持って仁を仮る覇道の花を開いたが、是れ悉く管夷吾の力に因るものである
公孫僑
弾丸困四戦 百練出利器
弾丸四戦に苦しみ 百練利器を出す
鄭は狭小な國で四方の隣国と闘って苦しんだが、百練の利器の如き子産が出て國の安泰を得る事十年に及んだ
應變如斬亂 鋤豪如擠墜
変に応ずる事乱を斬るが如く、豪を鋤く事 墜を擠とするが如し
彼子産は変に応じて事を処理する、恰も快刀乱魔を断つが如く、豪強制し難き族を除く事、将に落ちんとする物を押し落とすが如く、何の苦も無く排除した
鑄刑争錐刀 未免傍観刺
刑を鋳て錐刀を争うと 未だ免れず傍観の刺しりを
只刑書を鼎に鋳て常法とした一事は「民をして小事小利を争うの端を開き乱獄賄賂因って起こるところだ」と傍観者たる晋の賢太夫、叔向の譏りを免れなかった。
夏夜 日本 江馬細香
雨晴庭上竹風多 新月如眉繊影斜
雨晴 庭上竹風多く 新月眉の如く繊影斜めなり
深夜貧涼窓不掩 暗香和枕合歓花
深夜涼を貧って窓掩はず 暗香枕に和す合歓の花
注: この詩の転句「窓不掩」は、窓が主語の様に見えて、漢文法には叶はぬかに見えるが、然しこの「窓不掩」場合も見方に依っては語法に叶はぬ事柄ではない。
我不掩窓の語順から見れば窓不掩は不自然だが、別に強調文の語法として我把窓不掩の語法があり、我把を省略したと見れば理解できる。
薬物 清 王魚洋
薬物知何益 愁多老病侵
薬物何の益かあるを知らん 愁い多くして老病を侵す
薬が一体何の役に立とうか、愁いが多くて老いと病に身は侵される
眼枯兒女涙 心折短長吟
眼は枯れる女児の涙 心は折じく長短の吟
眼は兒や妻を思う心に涙も枯れ、心は長短の苦しい句作りに碎けて仕舞う
郷信何時達 秋涛日夜深
郷信何れの時にか達せん 秋涛日夜に長し
郷里からの手紙は何時着く事だろう、秋の波浪は日に夜に水かさを増して深くなる
巴猿殊造次 棲絶叫楓林
巴猿殊に造次なり 棲絶楓林に叫ぶ
巴山の猿は実に慮外な奴、極度に悲しげに楓の林の中で叫ぶ
徐州雑題三首録一 清 銭牧斎
彭城十日水奔流 太守行呼吏卒愁
彭城十日 水奔流し 太守は行くゆく卒吏は愁う
徐州城下の黄河の水が十日間も奔流し、すは大変と太守は吏卒を呼び、吏卒は愁いたものである
河復詩成無一事 羽衣吹笛坐黄樓
河復の詩成りて一事無し 羽衣笛を吹いて黄樓に坐す
それが蘇東坡先生が徐州太守と成られて、黄河の治水をされ、河復の詩を作られてからは、一度もそんな事がなかった。
蘇東坡先生は夜羽衣を着て笛を吹いて黄樓の上に座し、友人と相見て笑って「李白死してより此の世に此の楽しみ無き事三百余年」と言って風流を愛されたそうだ。
偶成 清 呉海村
関河蕭索暮雲酣 流落郷心太不堪
関河蕭索として暮雲酣なり 流落せる郷心は太堪ず
山河厳しく、暮れ方の雲が盛んに立ち篭める。零落して故郷の思い甚だ堪え難いものがある
書剣尚存君且往 世間何物是江南
書剣は尚存す 君且く往まれ 世間何物かこれ江南
たとえ落ちぶれても書剣だけは離さず持参している。君よ、暫時留まって我と語ろう。世間ではあの江南地方は余程良い処の様に云うが、何が江南、一向に詰らんさ(此処だって捨てた物ではない)。
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